将軍神社・日吉神社

平安時代の武将が陣を構えたという土地。

(埼玉県嵐山町将軍澤)

写真

縁切り橋から鎌倉街道を南へ行った集落が「将軍澤」だ。平安時代に鎮守府将軍に任ぜられた藤原利仁(としひと)がこの地に陣を構えたとされることから付いた地名である。

なお、地元では藤原利仁ではなく坂上田村麿だとされているが、本稿では藤原利仁として話を進める。

写真

その利仁を祀る「将軍神社」という神社が将軍澤集落の北の外れにある。

写真

利仁は豪胆な人物だったようで、その様子は『今昔物語』26巻17話に描かれる。それはこんな話だ。

あるとき利仁は主人である藤原基経(もとつね)の宴席にいた。そこで下級役人(五位)が「芋粥を腹いっぱい食べてみたいものだ」と嘆くのを聞く。芋粥は当時のデザート的なものだが利仁にとっては些細な料理である。利仁はその五位に、芋粥を腹いっぱい食べさせると約束する。(利仁は四位だった?)

しばらくして利仁は2人の家来を伴って五位の元を訪れ、東山の温泉に行こうと誘い出す。

写真

利仁と五位、それに家来の2名の計4名は京の町を離れ、やがて大津に着いてしまう。五位は東山に行くと聞かされていたので不安になってくる。実は利仁は嘘をついて五位を一人で連れ出し、自分の家のある敦賀に連れていくつもりだったのだ。

敦賀はとても遠く、当時は治安もよくないので4名の旅では心もとないと五位は思った。すると利仁は野ギツネを捕まえて、敦賀の家まで行って迎えを寄越すよう伝えろと命じて放した。

写真

翌日、一行が湖西の高島のあたりに差しかかると、確かに利仁の家の者が迎えに来ていたのだった。昨夜、利仁の奥方にキツネが憑いて迎えを出すように口をきいたというのだ。

利仁と五位は敦賀に到着し、五位は上等な装束や夜具、夜伽の美女をあてがわれて歓待される。

翌朝、利仁は領民に山芋を1本ずつ献上するように命令を下すと、屋敷には大量の山芋が届き、それを元に大量の芋粥が造られる。

写真

五位の前には1斗も入る酒器で何杯も芋粥が並べられたので食べ切れず、もう満腹ですと降参した。

利仁の屋敷の使用人たちは、客人のおかげで自分たちも芋粥を食べられるとよろこんだ。ふと見ると、利仁が使いにしたキツネもその場に来ていたので、キツネにも芋粥を与えたという。

五位は1ヶ月ほど屋敷に滞在し、装束などの土産を渡されて帰った。下級役人でも真面目に務めていれば、いつかいいことが起きるものだというような話である。

写真

利仁を祀るとされる神社は日吉神社の境内社で、公民館の横にある。

写真

ぼんやりしていたら見落してしまうような祠だ。

写真

将軍神社の内部。

写真

もちろん本体である日吉神社にもお参りしていこう。

写真

社殿は拝殿のみで凸型。

写真

拝殿の背後には納札場と、、、

写真

愛宕神社。

写真

境内は杉林で昼でも暗いが、林の中にいくつもの末社が点在している。

写真

稲荷社。

写真

神明社。

写真

山の神。

写真

ところで、『今昔物語』の利仁の話は、芥川龍之介によって翻訳され『芋粥』という小説になっている。そちらは高校の教科書などで読んだことがあるバージョンだ。

芥川の小説は『今昔物語』をほぼ忠実になぞっているが、五位を主人公として語られる。

五位はずっと芋粥を腹いっぱい食べたいと望んできたが、実際に多量の芋粥を一方的に与えられると食傷して、自分の願望がつまらないものになってしまったという悲喜劇になっている。

写真

高校のとき『芋粥』を授業で読まされても芥川の面白さはよくわかっていなかった気がする。

個人的なことになるが、自分には五位にとっての芋粥のように、どうしても手に入れたくて長いあいだ執着してきたものがあった。

それがあるとき運良く手に入った。しかもそれは自分が欲していたものを100としたら、120くらいの希望以上のものだった。

写真

でも渇望したものが手に入ったからといって、残りの人生がずっと満たされたものになったかというとそんなことはなく、願望がなくなって執着だけが残るという苦しさが生まれただけだった。

芋粥の芥川バージョンは、人が生きるには手が届かない願望が残っていたほうがいいというアレンジが巧みなのだと今ならばわかる。

(2025年10月23日訪問)