大蔵宿から鎌倉街道を南へ向かうと、次の宿場は将軍沢という集落だ。この名前は平安初期の著名な武将、藤原
藤原利仁は朝廷に従わない地方の豪族を平定するために東国の国司として派遣された人物。特に宇都宮付近で大きな勢力を倒して名を揚げ、鎮守府将軍の位に就く。それゆえ「
鎌倉街道の坂道を登って行くと大蔵宿の外れに縁切り橋という橋がある。この橋に利仁将軍(あるいは坂上田村麻呂とも)に関わる伝説がある。
利仁はあるとき岩殿山に立て篭もる勢力を討伐するためにここに陣を敷いた。しかし岩殿山は九十九谷という複雑な地形で、敵がどの谷に隠れているのかわからずに攻めあぐね、時ばかりが過ぎていた。
都では奥方が夫の帰りが遅いのを心配して、京から東山道を下りわざわざ陣を訪ねてきた。
しかし利仁は重大な戦を指揮している最中であり面会に応じなかった。それでも奥方はどうしても夫に会いたくてこの橋のところまで来たところ、利仁は怒って奥方に離縁を言い渡したという。
それ以来、この橋は縁切り橋と呼ばれるようになった。婚礼のときには縁起が悪いといって、嫁入りではこの橋を渡らないという。
これが現代の縁切橋。看板が出ていなければ橋があることにも気付かずに通りすぎてしまうだろう。
ちなみにこの縁切り橋の伝説と類似した伝説は全国にいくつかある。
たとえば、群馬県の高山村にも伝わるのはやはり平安時代の物語で、平将門を討伐する軍に属する武将が、村の姫と恋仲になり戦をし損じたことを恥じて出家してしまい、訪ねてきた姫を追い返すというものだ。その場所を「添わずが森」というのだが、ここ大蔵にも添わずが森という場所があるという。
この民話の話型、何か元があるのかな。
(2025年10月23日訪問)
