諏訪沼から吐き出される大串用水を東へ200mほど行ったところに水門がある。
この水門は
堤体は煉瓦でできている。2連の煉瓦樋門は県内にはここ1ヶ所しか残っていないという。
写真は堤内(大串用水の川裏)から見たところ。ゲートの奥側に大串用水が流れている。現在、堰板はなくなっていて水は素通しだが、この煉瓦水路自体が文化財として残されている行き止まりのダミー水路なので逆流しても差し支えない。
町が立てた詳細な案内板がある。
長文の説明のほとんどが埼玉県全体の樋門の説明であり、この永府樋門の説明は最初の1文、「永府門樋は近隣の水田への水源として、明治三十四年に市野川と農業用水の交点に造られました。」とあるのみ・・・。
なんだか、よくわからない説明なのだよね。
GoogleMapsの航空写真に、市野川と永府樋門の位置を書き込んでみた。
一般に樋門は堤防を貫通して取水/排水する設備だが、こうして見ると樋門の場所は堤内地であり、なせここにこんな大型の設備が造られたのだろうか。
確かに永府樋門の北側の耕地はほんの僅か北に向かって下がる傾斜になっているから大串用水から引水できるのだが、2連の巨大な水門である意味がわからない。
だが、それは過去の市野川の範囲を見てみると意味がわかってくる。江戸~明治時代には市野川の堤外地は現在よりずっと広く、大串用水が左岸堤防に沿って流れていた。
永府樋門はかつての左岸堤防を貫通する樋門だったのだ。
ただし樋門がある場所は明確な土手ではなく、自然堤防なのである。
注意深く見ると、道路の右側が微高地になっていることがわかる。これが自然堤防。
大串用水はおそらく市野川の旧流路で、かつて市野川は東に向かって流れたことがあったのだ。江戸初期に大囲堤という堤防ができて大串用水は直角に南方向へ曲げられて市野川に戻されるようになった。
永府樋門が大型なのは、おそらく取水のためではない。
市野川が増水したときにはゲートを閉めて北側の土地への浸水を防ぎつつ、上流のどこかで左岸堤防が切れて北側の土地が水没したときには、氾濫水をすばやく市野川に戻すためだったと考えると説明がつく。
水がないので水路に織りて水門のひとつを間近に見てみる。
鉄製の蝶番が残っている。観音開きのスイングゲートだったのだ。
樋門の上には手すりがあり、橋として通行できた。
現在は煉瓦樋門の真横に実用の樋門が作られ、ここが開け閉めできるようになっている。
(2023年02月18日訪問)
