
赤尾地区の集落の奥まった場所、普通だったら立ち入ることがないそのどん詰まりに立派な屋敷がある。
旧赤尾村の名主安野家住宅だ。

安野家は元文2年(1737)に名主になり、赤尾村の北地区を統治した。赤尾村には南地区に林家という名主もあって、2軒での共同統治だったという。
2025年現在、地図で安野家を見ると撮影などの古民家レンタルに使われているようだ。

この辺りは越辺川に九十九川と都幾川が合流する場所で、古くから水害が多い場所だった。堤防が切れて冠水すると水が引かず、下流の堤防を持つ小沼地区と争いになることもあったという。
安野家の横の電柱には洪水が発生するときの予想水位がマークされている。その高さは4.5m。

安野家の背後はすぐに越辺川堤防になっている。
その堤防から安野家の屋敷森を見たところ。
この安野家の特徴は家の北側に濠をもつことだ。この濠によって洪水時に屋敷に押し寄せる水流を受けて弱める働きをするという。このような濠を「

構え濠は、屋敷の土地をかさ上げしたり水塚を造るために土砂を採取した跡である。
昭和になってから水塚を造った家の話を聞くと、ダンプで100回以上も客土を運んだなどという話を聞くが、江戸時代には遠方から多量の土を運搬することなどできないから、家の周囲や田んぼから土を掘り取るしかない。その跡は当然低地になるから池になるのだ。
以前に紹介した環濠屋敷の濠は南側にあったが、同じように敷地のかさ上げのために土を採取した跡だと思う。

荒川水系では吉見町で構え濠の跡と思われるものをいくつか見たことがあるが、これほどはっきりと残っている構え濠を私は他に知らない。
でもまぁ、こうして目を馴らしておけば将来道行きで構え濠を見かけたら気付くだろう。

季節は年末で濠には薄氷が張っていたが、わずかな流れがあって濠からは排水しているようだ。

屋敷側は少し土地がかさ上げされている。屋敷へ出入りするための丸木橋がいくつかあった。

さらに濠をたどっていくと大きな沼があった。ここも土砂を採取した跡なのか。湧水もありそう。

訪れたのが夕刻というのもあったが、何だか河童くらい潜んでいそうなおどろおどろしい沼だった。

その先は歩けないが、濠は屋敷の西のほうへ伸びていた。
この濠と屋敷森で越辺川が氾濫したきの水の流れを弱めるのだ。

屋敷の北側の越辺川の右岸堤防。
独立した小さな池もある。昔の鯉池じゃないかな。

堤防から高水敷へ降りる道がある。
この道の先には10年くらい前までは沈下橋があったそうだ。

わかりにくいけれど、手前が越辺川、奥側が都幾川。この場所で合流している。
(2022年12月16日訪問)