
平尾井薬師へ向かう道で、
それがこの風景、わかるだろか? 輪中集落だ。

「
実は木曽三川以外にも輪中集落はある。
それが何気なく走っていた道行きにあったのでビックリしてしまった。しかも、何と言ったらいいのかな、パワー系輪中? ものすごいチカラ技で作られた輪中集落なのである。

氾濫原に住む人々は、長い時間をかけて川と寄り添って生きる智恵を積み上げてきた。その集大成ともいえるのが輪中である。川と生きる知恵とは、
- 川が増水したときどうやって浸水を防ぐか
- 浸水が避けられない状態になったらどうやって穏やかに浸水させるか
- 浸水中にどうやって人命や家財を守るか
- 川の水位が下がったらどうやって水を排出するか
といったノウハウである。

しかるにこの輪中集落は、先ほどの知恵(1)のみの一点突破、他の要素が感じられないのだ。
まず、堤防の高さと屈強さが半端ではない。集落の家々はどれも新しく、浸水を前提としたような造りでもない。

人々がリスクを承知で氾濫原に住む理由は土壌が豊かだからだ。氾濫によって流されてきた栄養に富んだ土壌のおかげで他の地域よりも農作物の収量が多くなるというメリットがある。でも現代では化学肥料によって植物に必要な栄養素は手に入るし、高台に住んで車で農地に通ってもいいわけで、農業のためにあえて危険な場所に住む必要は薄れている。
しかもこの輪中集落、そこまで耕作地が広くない。ただヤバいだけの土地にしか見えないのだ。

あとで調べてみたら、この輪中堤は平成になってから造られたのだという。
・・・そんなことって、あるの? ホントかいな?
2km下流で熊野川に合流するところに水門を造ったせいで相野谷川の水位が上昇する危険性が生じてセットで造られた堤防なのかな。早い話、熊野川でギリギリの状況が生じたとき新宮市街を守るために対岸の相野谷川地区を犠牲にするという・・・。

集落は3方向を屈強な輪中堤に囲まれていて、町を通り抜ける車道には2箇所の
こちらは上流側の陸閘。

こちらは下流側の陸閘。

川が氾濫する危険があるときは2ヶ所の陸閘を閉じて、まるで要塞にろう城するように集落に閉じこもるのだ。

定礎を見ると平成17年完工となっている。
でも、調べてみると平成23年(2011)の台風12号水害のときには水位が堤防を超え、輪中内が完全に水没している。
あくまでも浸水させないという設計の輪中集落だから、水が入ったら排水できず、川の水位が下がると輪中内がプールのようになり、堤防の一部が内側からの水圧に耐えなくなって逆向きに決壊したという。

集落入口のポールに、過去の水害時の水位がペイントされている。
赤いラインが行政が想定していた災害水位。輪中堤を造る前に実際に発生した水害を基準にしていた。
青いラインが台風12号のときの水位だ。台風12号の被害が途方もなかったことがわかる。

堤防を見ると、上半分のコンクリートの色が新しい。この部分は台風12号災害後に補強された部分と思われる。

輪中内の景観。
堤防は強化され、現在まで浸水の被害は発生していないが、これから50年、100年というスパンで見たとき、今後も台風12号のような水害が発生しないという保証はない。
輪中に住み続けるということは、いつか必ず浸水するというくらいの気持ちでなければむずかしいだろう。
今回は事前調査もなにもなく訪れたので、見どころを見落としているかもしれない。
車窓から観察した感じでは、相野谷川の右岸にも輪中集落があるようなので、次回この方面に行くことがあったらもう少し念入りにみてみたいと思う。
(2024年12月16日訪問)