荒川大橋南詰めから上流方向に行った道路端に災害伝承碑がある。
ただ、碑の前の道路はは路肩がゼロ! 片側が土手、片側が工業団地で、四輪車はおろか自転車を駐輪するのすら憚られるような余裕のない道路だ。
さらに押切橋方面への抜け道で車がスピードを出しているの、ちょっと立ち寄っていくかという場所ではないのだ。
だがきょうはこれまで素通りしていた場所を集中的に回収する日と決めて出かけてきたから、無理にでも立ち寄っていく。
碑の横に堤防を乗り越えて河川敷の農地へ入る農道があるので、その農道を塞ぐかたちで駐車させてもらった。
碑の銘は「修
文化財案内板。
吉見堤の碑と同じ災害に関する碑になるが、災害の様子の一部分が読み下しで書かれているのはありがたい。
口語で書いてくれたらもっといいのに・・・。
碑文にはおおむね次のようなことが書かれている。
荒川は、夏から秋の時期に大雨が降ると、堤防が切れて村々が水浸しになるような水害がを免れずにいた。
明治40年8月15日に破堤したため、翌年(明治44年)に堤防を430mに渡って嵩上げし、さらに180mの堤防を新たに築いた。
明治43年8月には10日間雨が降り続き、再び堤防が切れて甚大な被害が発生した。
ここにおいて埼玉県は臨時費を投じて決壊した約490mを補修し270mを移築した。さらに翌44年の臨時費で630mを新築し、134mを移築した。これにより高さ4.5m、天端幅3.6mの堤防が完成した。総工費は26,841円であった。
工事にあたっては水害で被災した住民を率先して雇い、賃金を支払うことで衣食の支援とした。
現在の堤防の高さは約5mなので、明治44年の修復のままなのだろうか。
碑文では天端は3.6mとあるが、その幅もだいたい現在と変わらない。
堤防の
川の水面までは200m以上離れているので、ここからは見えない。
(2026年07月01日訪問)
