結局、上根から歩いた・・・。
碑は法面の斜面途中に立っている。碑がある位置が大正時代の堤防の天端で、その後2度にわたって堤防が嵩上げされ、その際、川表側に拡幅されたのだろう。
碑は正面を集落の方に向いて立っている。
裏面にこの碑の謂れが漢文で彫られている。
大正2年8月27日に荒川の大氾濫がありこの場所で205mに渡って堤防が決壊し、田畑が水深9mの深さで水没した。修復にあたっては国、県、地域が区分けして請け負うことになった。工事は大正3年2月20日に着工し、水害に遭った地域の人々は男も女も奮起して働き、9月9日に竣工した。
荒川では明治43年にも未曾有の大水害が発生しており、この水害はわずか3年後ということになる。地域の人々も疲弊していたと思うが、それでも地域を守るために働くしかなかったのだ。
ここから見える帯状の水田は古い河道跡で低地だったから、そこを濁流が流れ下ったはずだ。集落は自然堤防上にあるとはいえ、水深9mでは集落にも被害がでたことだろう。
(2026年06月12日訪問)
