友人と東松山方面で遊んだ帰路。群馬方面に戻るのに、荒川の重忠橋を渡った。このルートは群馬方面まで道なりに走れるから、男衾、森林公園、江南、大里方面からの帰路でも通ることがある使用頻度の高い道だ。
そこに
この道はもう何度通ったかわからないが、道から見る限りあまり魅力的なスポットにも見えず、これまで一度も立ち寄ったことがなかった。
もうかなり遅い時刻だったが、友人が寄ろうというので行くことにした。
友人にとっても普段なら立ち寄らないようなスポットだったが、きょうは昼間に重忠の居城といわれる菅谷館跡を訪れたので、その流れで素通りはできなかったようなのだ。
この場所はもと畠山家の屋敷があった場所で、重忠はここで誕生したといわれている。
駐車場に車を止めると、そこに重忠の銅像があった。
ちょっとわかりにくいポーズだが、これは源平合戦における一の谷の戦いで、
義経らが騎馬で崖を駆け下る中、重忠は愛馬を傷つけまいと、ひとり馬を担いで駆け降りたとされるエピソードを再現しているものだ。たぶん史実ではなくフィクションだが。
道路に近い場所に重忠産湯の井戸というものがあった。
四方に柵があり井戸に近づけないうえ、井戸にも金網が載せられているので中の様子はさっぱり見えない。
ここは館跡ということで周囲に土塁があるという。
これが土塁の写真なんだが、わかる?
土塁の高さは25cmくらいしかない・・・。
館跡の敷地にはお堂がある。
ただ賽銭箱などもなく、もしかしたら倉庫かも。
遊具もあるが古いブランコだけ。
座板は日都産業のものが取り付けられているが、ブランコ自体は一点モノで、座板は後補だろう。
重忠の墓は覆屋の中にあった。
写真中央の五輪塔が重忠の墓。
他に5基の石塔がある。
重忠主従の供養塔が6基というのは、何かいわれでもあるのだろうか。重忠が討ち死にした場所の近くの薬王寺という寺にも6基の塚があり、重忠主従を祀るとされている。
石塔はその形式から少なくとも鎌倉時代のものであると考えられるという。
江戸後期に書かれた観光ガイド『新編武蔵風土記稿』には重忠の五輪塔は満福寺にあると書かれていて、どうやら明治時代に満福寺からこの場所に墓石が移動されたらしい。
近くにころがっているこの丸石は、重忠の父、畠山
(2026年01月21日訪問)
