仕事の視察でコーカレイ郡区のトココ村という場所へ行くことになった。視察といっても仕事が一段落したので視察をかねて関係者の実家に招かれたのだ。私だけでなく、職場のスタッフ全員も同行しての遠足といってもいい。ほとんど休みなしで進めてきたプロジェクトに対する一種の慰安旅行でもある。
トココ村はKNU(カレン民族同盟)の軍事部門 KNLA(カレン民族解放軍)第7旅団 = PC(カレン平和評議会)の拠点のひとつ。2019年現在、外国人の立ち入りには州政府の許可が必要だ。よって今回紹介するスポットは、当面は観光で訪れるのは困難だろう。
村の入口にはKNUのセキュリティゲートもあり、緊張感がともなう土地だが、今回はKNU関係者から直接招かれての訪村なので気は楽だ。
KNU はミャンマー中央政府から見れば反政府団体。2019年現在、日本の公安調査庁のサイトでは国際テロ組織の扱いである。だがカレン州で暮すカレン族からすれば、民主化後も国を実質的に支配する軍事政権こそが自分たちを抑圧する非道な存在で、KNU は自分たちを守るための組織なのだから、テロリストという見方はまったくあたらない。
村の中の様子。家々は林の中に点在していて、自然は豊かだ。
カレン州やモン州の人口の中心であるサルウィン川の河口エリアからはかなり離れた中山間地だが、ドーナ山脈から流れ出る小川があり、農業をやるのにも悪くなさそうな村だ。
村の住宅はすべてレンガ積造の綺麗な建物だった。はっきりとは確認しなかったが、このタイプの規格化された住居はおそらく日本財団が中心となって支援で建てられたものだと思う。
カレン州の村々では、高床式の木造民家が一般的なので、村の住宅としてはかなり恵まれている。
村の東側にはドーナ山脈という南北に長い山脈がある。
カレン族が内戦時代に闘争の拠点としたエリアである。山深い地形で政府軍が攻めあぐねた場所なのだ。
トココ村は山脈のすぐふもとにあるので、いったん有事になっても背後の山脈に潜伏しやすい地の利がある拠点なのだろう。
仕事の視察や打合せを終え、皆でソーバウジー(Saw Ba U Gyi)の墓所を見学することになった。きょう、職場のスタッフ全員が出向いてきたのも、このお墓を見学するのが目的なのだ。
カレン州でときどき見かけるキリストみたいな人物の肖像画。それが現在のKNUにつながる独立運動組織を指導した、コートレイ共和国初代大統領ソーバウジーである。カレン族の独立運動の歴史上、最も重要な人物なのだ。
墓所は村外れにあるらしい。
乗用車ではちょっと大変な悪路を行けるところまで行く。
やがて道は終わり、大きな川に突き当たった。
ここには墓所へ行くための仮設の渡し舟があり、これで川を渡る。
と言っても、舟は竹を束ねただけのイカダで浮力がなく、2~3人乗っただけで喫水がなくなるという状態。
荷物を濡らさないようになんとかしがみついているのがやっとだ。
全員がこのイカダで少しずつ渡河する。
なにせこんな状態なので、女の子たちの丈の長いスカートであるロンジーはお尻からびしょぬれになる。
みんな遠足だからそれなりにオシャレなロンジーを履いてきているけれど、いちいち悲鳴を上げたりしないのがミャンマーの女の子なのだ。「歩いていればそのうち自然に乾くわ」という程度の感覚。
川を越えるとまたしばらく畑の中を進む。
しばらく進むと、墓標が見えてきた。
こちらは農家の出作り小屋か、はたまた、墓参者の休憩所か。
墓所にはソーバウジーの墓だけではなく、ともに戦った戦士たちも並んで眠っている。いまでも KNU の重要人物が亡くなると、この場所に墓を立てる。
墓所はキリスト教の様式で、たぶん亡骸はこのレンガ作りの棺桶の中に火葬せずに納められている。
ただしあとで詳細を書くが、ソーバウジーの遺体はこの棺桶の中にはない。ここはビルマ軍の襲撃で彼が殺された場所なのだ。遺体はビルマ軍に持ち去られモーラミャインで検分されたあと、チャイッカミ沖の海上で水葬されたからである。英雄の霊廟が作られ神格化されないようにという思惑があったのだろう。
墓所の前は谷地で棚田になっているが、いまは耕作されておらず、水牛が放牧されていた。
めったに人が来ない場所に大勢の人間が列をなしてやってきたものだから水牛たちは脅えて一箇所に固まってしまった。
これがソーバウジーの墓。
みんな記念撮影をはじめる。ミャンマー人ってほんと写真好きなんだよね。
ソーバウジーとカレン族の独立運動の歴史について、ここで簡単に紹介しておきたい。
ミャンマーは多民族国家といわれ細かく分ければ130以上の民族が存在するという。大きく分ければ民族は8つに分類できる。ビルマ族が人口の70%を占める。続いてシャン族8%、カレン族7%で、カレン族は第3位の割合を占めるが、ビルマ族と対比すれば少数民族といえる。
カレン族は6世紀ごろに現在の中国雲南省あたりから南下してきた部族と考えられている。当時、ミャンマー南部にはモン族が国家を築き、北方から侵入する強大なビルマ族と対立していた。
カレン族はその2大勢力の狭間で、豊かな平野部に定着することができず、山岳地帯で焼畑などをして暮すしかなかった。その中で、ビルマ族からは山に住む野蛮な部族というようにさげすまれるようになっていった。
19世紀にビルマ王朝が英国と戦争を起こすと、カレン族は英国側について戦った。カレン族にキリスト教徒が多いのも、長い間イギリスと共闘した歴史と関係がある。英緬戦争の結果ビルマ王朝は滅亡し、ビルマはイギリスの植民地になる。
20世紀になり日本軍がビルマ族と共同しビルマに侵攻したときも、カレン族は英国側についた。戦局は当初日本側が優勢で英国はビルマから撤退する。ビルマ全体を掌握した日本軍・ビルマ族はカレン族を武装解除させようとした。その際過激化したビルマ族の一部によってカレン族への虐殺が行われてしまった。
この事件をきっかけに、カレン族はビルマ族に対して不信感を強め、武装解除することなく部族間の闘争に発展していく。
第二次大戦が終わり、ビルマ族中心の国家樹立の準備が進められると、カレン族は危機感を募らせ、英国に対してカレン族の独立国を認めるよう働き掛けた。このときにカレン族を代表した政治家がソーバウジーだった。
しかしカレン独立国は認めらなかった。ソーバウジーらは、次にカレン州をカレン族の自治による独立性の高い州とすることを求めたが、彼らの希望はすべて棄却され、1948年1月に憲法が発布されビルマは独立国家となった。
もはやカレン族とビルマ族の対立は決定的になり、カレン族は独立式典をボイコットし、独自の軍事組織を結成してゆく。カレン族独立のためには、実力行使しかないという機運が高まっていった。
1948年の8月にカレン族の一部はついに武装蜂起し、シッタン川から東の地域を制圧する。それでもソーバウジーは平和的解決を求めカレン族に自制を促し、中央政府との対話を続けようとしていた。しかしカレン族内の急進派の動きは止まらず、1949年1月にはラングーン(現ヤンゴン)の郊外まで進軍した。
あわや首都が占領されるかという破竹の勢いだったが、カレン族側も決め手を欠いた。国際世論の後ろ盾もなく、人口比で劣るカレン族にあるのは独立に対する強い決意だけだった。
1949年3月ごろには態勢を立て直したビルマ軍に反撃され、政府からはカレン族に対して降伏調停が出されるまでになった。1949年末までにビルマ政府は完全に息を吹き返し、メディアを利用してカレン族を封じるためのプロパガンダを展開した。
指導者を失ったカレン族組織は、もはや政府軍と対等に戦う力を失い、山岳地帯でゲリラとして活動するしかなくなっていく。
これが2012年まで続く、ミャンマーの内戦の始まりなのである。
ソーバウジーが殺された8月12日は、カレン殉教者の日とされ、カレン族の間では毎年式典が行われている。
ソーバウジーは戦いのさなかにも常に平和的解決を求めていた優れたリーダーだった。
この墓所に彼の遺体はないが、この場所はカレン族にとって重要な場所であることに間違いはない。
いつかミャンマー政府との確執が薄れ、カレン州のどこにでも自由に外国人が入れるようになり、多くの人がここを訪れるようになることを望みたいが、それにはまだまだ時間がかかるだろう。
参考文献 大野徹『ビルマにおけるカレン民族の独立闘争史』(1969)
(2019年07月19日訪問)
日本の伝統木造建築: その空間と構法
単行本 – 2016/8/8
光井 渉 (著)
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