『迅速測図』という明治13~19年ごろに作成された地図がある。現在の地図と比較してもあまり変わらない正確な図版のため、明治初期(つまりほぼ江戸時代)の地形や土地利用がわかるというとても興味深い地図である。
この埼玉の稿を執筆するにあたっても、江戸時代の街道や河川の位置を確認するために、時々参照してきた。
あるときダラダラと迅速測図を眺めていたら、吉見町で興味深い地形を見つけた。
吉見領大囲堤内は基本的に和田吉野川(あるいは、先史時代に荒川が)流れた氾濫原で、川の蛇行による三日月形の微高地や低地が見られる。でも見つけた地形はくっきりと河道跡が田んぼになっていて、まるで大型前方後円墳の周濠みたいなに見えるのだ。
「ん~? ここ何度も通ってるけどこんな地形あったっけ???」
同じ場所を地形図で見てみると、旧街道はそのまま県道345号線になっていて集落の位置も同じだが、田んぼが長方形に土地改良されている。
この図を見る限りではここに三日月形の低地があるなんて気付かない。
でも地形図に高低差を重ねてみると、明治初期の地図にある三日月形の地形はいまでも残っていることがわかる。
きょうはその低地がどうなっているのか、実地を見てみよう。
で、実際に来てみると、土地改良された現代的な水田が続いているだけだった。
ただし低地側から集落を見るとかなりの高低差がある。法面は擁壁や石垣になっているところが多く、目測で2.5mくらいの高さがある。
集落の中で特に立派なお屋敷。土蔵部分は水塚。
こうしたかさ上げは重機が登場してからのもので意外に新しいのではないかと私は考えている。
この地区では明治43年の埼玉全体で発生した大水害につづき、大正2年にも荒川の近くで堤防が切れたことがあり、豊かな家は財産を守るために大がかりな工事をしたのではないかと推測している。
こちらの土蔵も水塚。
ただ、周囲の状況から、写真に撮ってわかりやすいような水塚は見つからなかった。
県道は低地から2m以上高くなっているが、その県道沿いにもかさ上げしている家がある。
集落全体は微高地なのだが、その高さではまだ安心できないのだろう。
こちらの家も広い敷地全体がかさ上げされている。巨大な水塚と言っていいかもしれない。
この家の北側は濠になっている。
遠方からダンプで土砂を運搬するような大掛かりな工事をする以前の時代に、水塚にするための土を掘り取った「構え濠」ではないか。
構え濠は水害時に氾濫水が押し寄せたとき、その力を弱める機能があるという話もある。
現在では濠は埋もれて浅くなってしまっているから、水流を弱める機能は弱そう。
いずれここに構え濠があったということもわからなくなるかもしれない。
(2025年07月13日訪問)
