寺号が4文字の寺は名刹が多い、これは経験則だ。
西巌殿寺は阿蘇山を行場とした山岳信仰の中心となったお寺で、草千里から山頂のあたりにかけて37房51庵、合計88ヶ寺を擁した一山寺院だったことがあるという。それが戦国時代に焼失し、安土桃山時代にここカルデラに36坊からなる寺として再建された。
現在の西巌殿寺は36坊の最後の生き残りみたいなお寺らしい。そういう「むかしは大寺だったけど、いまは何もない」みたいなお寺って好きなんだよね。その気持ちはたぶん、現代のインターネットで地方の情報が細かく調べられるようになった時代以前に、本で情報を得て「もしかしたら地方には人知れず大寺が残っているのでは?」なんていう夢を抱いて寺巡りしていたころの刷り込みなんだろうけど。
お寺はどちらが正面なのかよくわからない立地だが、おそらくメインとなる参道は北側のJR阿蘇駅方面からの道。
この参道は100mほど続いていて、その両側にかつての塔頭や宿坊が並んでいたようだ。
塔頭群はほとんどが失われているが、唯一、浄光院跡は現在でも人家などにはならずに観音堂が建っている。
萬福院跡。
ここも元塔頭だろう。
参道の行き止まりに薬医門がある。
薬医門をくぐると左側が本坊になっているのだが、本坊方面には行かずに直進して、緩い石段を登ることにした。
この先が本堂方面だからだ。
石段を登ると、また薬医門。
薬医門をくぐると、大銀杏、大ケヤキなどの巨樹が境内に目立つが、それ以外なにもなくがらんとしている。
なんと2001年に火事があり、主要伽藍を焼失してしまっていたのだ。
これはたぶん本堂の跡。
この寺の本堂は廃仏毀釈で一度荒廃したが、明治4年に阿蘇山上伽藍の建物を移築して本堂としたものだったという。熊本城主、加藤清正が寄進したと伝えられ、安土桃山様式のお堂だったという。
これは庫裏の跡かな。
足手荒神堂。本堂エリアで唯一焼け残った建物。
江戸中期くらいの建物かと思う。
絵馬の代わりに手形足形を奉納するとかかれていたが見つからず。
内部には3体の石仏が収められていた。
手前から、男鬼、役小角、女鬼かな。
本堂エリア東縁にはミニ観音霊場。18体ほどの石仏が並んでいる。
これらの石仏の光背がちょっと変わっている。
前側にせり出して屋根みたいな造りになっているのだ。しかも光背が長方形。
一般的な舟形光背もやけに前にせり出している。
ご当地の特徴なのか?
この本堂エリアには東門もあり、東側からも入ることができる。東門も薬医門。
この門から車道に出て、そのまま本坊方面へ歩くことにした。
車道を歩くと、こんどは本坊の山門がある。こちらは四脚門。
門の多い寺だな。あとでどの門なのか写真がわからなくなりそう。
本坊には深い池があり、庭園になっている。
本坊の寺務所。
この場所には學頭坊という塔頭があって、貞享4年(1687)に比叡山から高僧が入り、阿蘇一山の寺をまとめる存在になったという。
それが現在の西巌殿寺になった。
本坊付近の鎮守社。
これは外観的には十王堂っぽいけれど・・・
中を覗いてみたら地蔵堂だった。
まぁ、閻魔大王の本持仏は地蔵菩薩なので、実質的に合ってるのかもしれないが。
地蔵堂中には火災で被災した本堂の仏像が収納されていた。
四天王。
大威徳明王かな。
黒焦げになった痛ましい開山の像。
ほとんど原型はわからない。
地蔵堂の前には小さな地蔵堂があった。
(2011年08月08日訪問)
図解/古建築入門: 日本建築はどう造られているか
単行本 – 1990/11/1
西 和夫 (著)
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寺院建築の架構が最も理解しやすく書かれている本だと思います。