能仁寺

飯能戦争の舞台となった大寺。

(埼玉県飯能市飯能)

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飯能市の郷土館で雛人形の企画展があり、それを観るために埼玉へ来ている。

数年前、群馬の古民家でひな人形の展示を見て、その中にあった裃雛(かみしもびな)という人形に興味を持ったのだ。

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これがその裃雛。

私たちが現代、普通に考えるひな人形とは違って、裃を着ていておかっぱの小僧のような人形だ。

比較的安価だったといい、初節句のお祝いなどで贈るものだったという。そのため、一軒の家にこのように人形が貯まってしまうこともあるようだ。

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裃雛で特に興味を惹かれたのが、人形が着用しているキモノの生地だ。群馬で見た裃雛には「山繭縮緬(ちりめん)」という天蚕糸を交織した生地が使われるものが多かった。カイコとヤママユガの2種類の絹糸を混ぜて織った布である。そうした布がどこで織られていたのか、その産地を知りたくて裃雛に着目して、機会があれば情報を収集しているのだ。

だが、この企画展に展示されている裃雛の衣装はたぶんすべて木綿で、天蚕糸を使った生地はまったく見かけなかった。

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御殿雛も展示されていたが、肝心の山繭縮緬が見当たらなかったのでちょっと拍子抜け。

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さて、ここ飯能は幕末の飯能戦争の舞台として知られる土地である。この郷土館があるあたりも戦場になった。飯能戦争は、これから書くいくつかの記事に登場する、渋沢平九郎という人物に関係する出来事なので少し詳しく紹介しておこう。

徳川幕府は京都での鳥羽伏見の戦いに敗れて敗走。江戸城を開城し、将軍慶喜は上野の寛永寺で謹慎した。このとき、慶喜の警護等の目的で結成された幕府側の部隊が彰義隊(しょうぎたい)である。

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彰義隊を結成した人物、渋沢喜作(成一郎)は、壱万円札の肖像にもなった渋沢栄一の従兄である。

部隊には、栄一の養子平九郎や、栄一の義兄尾高惇忠(じゅんちゅう)(後の富岡製糸場初代場長)らも参加しており、実質的に(栄一を除く)渋沢家一党が采配した部隊だったという一面がある。

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徳川慶喜が寛永寺を出て水戸に移ったあと、上野での徹底抗戦を唱える副隊長と対立した渋沢喜作は、彰義隊を脱退して振武軍(しんぶぐん)という新たな部隊を結成した。

上野の彰義隊が新政府軍に敗れる(上野戦争)と、喜作たちは飯能へ移動し、能仁寺に本陣を置いた。だが上野戦争の勝利の勢いに乗った新政府軍は残党狩りを展開、1868年7月12日、ここ飯能で振武軍との戦いとなった。

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振武軍側は1,500人ともいわれ、そこに新政府軍3,000人が襲いかかった。

振武軍の本陣となった能仁寺には新政府軍の大砲が撃ち込まれ炎上。わずか数時間の戦いで振武軍は総崩れとなって敗走した。このとき振武軍の拠点となっていた4ヶ寺と民家200軒が焼失するという大きな被害を出した。これが後に言う飯能戦争である。

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戦いに敗れた喜作と惇忠は正丸峠を越え秩父、群馬方面へ脱出した。たが平九郎は一族とはぐれ顔振峠から越生方面へ逃走するものの追手がかかり討ち死にしている。

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飯能郷土資料館のすぐ北側に、振武軍の本陣だった能仁寺がある。

きょうは博物館目的で来たのだけど、さすがに素通りはできないのでお参りしていこう。

いったんは灰燼に帰した能仁寺だったが、現在は完全に復興している。

総門は八脚門の仁王門。

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阿形像。

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吽形像。

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総門を過ぎると、本堂まで杉林が続く。

広大な寺なのだ。ここなら1,500人といわれた振武軍も結集できたであろう。

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参道には石灯籠が続く。

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しばらくすると石垣があり、ここからがお寺の伽藍となる。

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まずは中門の釘貫門。

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釘貫門は通らずに、左手のゆるい石段を登っていく。

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すると山門の八脚門がある。

だが、この門にも入らずにさらに進むことにする。

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通路の奥に、不動堂(鳳翔閣)というお堂がある。

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内部には最近修復された不動明王と脇侍の矜羯羅、制多迦童子が見えた。

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不動堂のところは辻塀が切れていてそこから境内に入れる。

まずあるのが、お寺の説明によれば不動堂。機能としては護摩堂かな。

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そこから順に、開山堂、本堂、

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書院がある。

そして、書院の奥には直接は見えないけれど、庫裏、客殿、方丈などの建物が累々と続いている。

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書院の前には鐘堂がある。

建物はどれも新しいが、すべて木造、本瓦葺きの豪勢な作り。

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境内はとてもよく整備されている。

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本堂前にあったカエンダケの彫刻。

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香炉台などがあった。

(2016年02月21日訪問)