松坂座跡

銭湯も併設された娯楽の殿堂、製糸と共に栄えた。

(徳島県板野町那東大道下)

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板野町から撫養街道を西へ向かうと、次にある集落が那東(なとう)。ここはもと松坂村(まつさかそん)の中心部だった。

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その街道筋からちょっと引っ込んだ処に、松坂座という芝居小屋があった。場所は写真の路地の奥。その入口にある赤沢商店のおばあちゃんから話を聞いた。戦前の話になる。松坂座があったころはおばあちゃんはまだ独身で村内の別の場所に住んでいた。この入口の家に嫁入りしたときにはもう芝居小屋はなくなっていた。

松阪座は芝居小屋だったが映画も上映することもあった。『愛染かつら』などを観たのを覚えているそうだ。当時は無声映画だったが、アサヤンという弁士がいてとても上手だった。

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建物は木造2階建て。平場は歩み板のある升席で、床板の上にゴザが敷いてあった。花道や2階桟敷もあったが、せり上げや回り舞台はなかったようだ。場所は左奥のトラックが置いてあるあたり。右の車庫の場所には銭湯もあった。まさに娯楽の殿堂だった。

母親が松坂座の仲見世(売店)に勤めていた。客が入ると座布団を敷く仕事をした。座布団は無料。寒い頃には有料で唐津焼の白い火鉢のレンタルがあったという。仲見世で売っていたのはお菓子やミカン、ニッキ水でお酒は売らなかった。

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芝居があるときは、触れ太鼓を自転車に載せて村内を回って、演目を告知したそうだ。

「よう流行ってな、猫化(ねこば)けじゃのそんなんしたらな、もう、いっぱいの人が入ったな。猫の面()てな、ほんまに猫みたいになってな出てくるんよ。上板、鍛冶屋原からだって(客が)来たって。鍛冶屋原にだってな(劇場は)あった。ほなけどな、こっちにな、製糸があったんよ。そこに女工さんっちゅう人がようけおったけんな、ほなけん若い人はな、その女工さんを目的に来るけんな、上板のほうからでも来よったんよ」

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松坂村はこのあたりでは製糸が盛んな場所だったようだ。明治時代からダルマ繰糸機という家内制手工業の繰糸があったが、大正3年に従業員20人の市川製糸、昭和元年には従業員100人の松島製糸工場が建った。

松坂座はそうした蚕糸業の隆盛と共に繁栄した芝居小屋だったのだろう。

戦争が始まり蚕糸業不況になると昭和16年に松坂製糸工場は閉鎖され、松坂座も翌17年には廃業し、取り壊された。

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芝居に関連して興味深い話を聞いた。松坂座から西へ400mほどいったところに、松谷川という天井川があり、撫養街道は松坂橋という橋になっている。

この橋の下に芝居がかかることがあったそうだ。春子(はるこ)大夫(だゆう)一座などが年に1度か2度、ここで芝居をやった。

この座長の春子大夫という人物が、著名な義太夫の春子大夫なのかどうかは、どうもはっきりわからない。春子大夫はこのあたりの出身だったため、ここでときどき芝居を上演したということだった。

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仮設の小屋やテントを設営したのではない。

舞台は橋の下で、橋桁から背景などの幕を垂らして、橋を屋根の代わりにした。

水量の少ない扇状地の天井川だから、観客席は河原にゴザを敷いただけだ。観客は座布団を持参して座って観劇したそうだ。

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春子大夫というと義太夫の語り手で、演目は人形浄瑠璃かと思うのだが、おばあちゃんによれば、上演していたのは役者による芝居で恋愛ものが多かったという。春子大夫は年配の座長で、役者は若い人たちだった。

当時テレビがなかったので物語を見る楽しみといったら芝居くらいしかなかった。浄瑠璃が上演されることもあったが、おばあちゃんが子どものころには難しくてわからなかったという。芝居はわかりやすくて人気があったそうだ。

この河原での芝居についての思い出を話してくれた。

「晩のな、ライトの灯じゃからな、役者がきれい~に見えるんよ。ほいたらな、この入ったところの婆さんがな「また今夜も観にいくんじゃぁ」ちゅうて喜んで行きよったな。明くる日の朝な「夕べは姉さんな、あんな芝居よかったんだよぅ」とこう言うたらな、爺さんが後ろから付いて来よって「そんなにお前、春子はん春子はんばっかり言うんやったらな、もう春子はんの嫁はん行け!」ほんなおもしろいこと言うたぁ、ははは」

娯楽のなかった時代の芝居小屋がどれほど楽しみな場所だったのかがよくわかる。その隣りの婆さんって、もしかして・・・。

(2007年02月04日訪問)