赤沢商店

撫養街道に残るトラディッショナルな駄菓子屋。

(徳島県板野町那東大道下)

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撫養街道の那東に駄菓子屋があることに気付いたのは3年前、2004年3月末のことだった。

そのとき私は、撫養街道に残る古いガソリンスタンドの跡の写真を撮っていた。

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これはその時の写真。

店先に座るおばあちゃんの姿がわずかに映っているが、そのときから時間が停まったように、赤沢商店の様子は何ひとつ変わっていない。

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そしていま芝居小屋の跡を訪ね歩くうちに、ここ赤沢商店でインタビューしているのである。

練炭の火鉢にあたりながらおばあちゃんは日がな一日、ここで店番をしている。店内はタタキ土間。土間の上に空き箱を並べて商品を陳列。これは私が子どものときに通った駄菓子屋やじじ焼き屋と同じだ。ものすごく懐かしい。

さすがにここまでの駄菓子屋はそうはないので、数年に一度くらいの割合でテレビの取材もあるそうだ。

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会計は五つ玉のそろばん。

「これでないとよう入れん」電卓もあるがほとんど使ったことはないという。

おばあちゃんがここで店を始めたのは結婚して子どもが生まれてから。終戦後のことだ。もう60年ここで駄菓子屋を続けている。買いにくる子どもたちも、娘の世代から孫の世代になり、ひ孫の世代になった。村には子どもも少なくなり、いまではほとんど来ないけれど、健康のためにお店を続けているという。

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カレンダーをめくるとそこには秘密の思い出、お店に通った子供たちのプリクラが貼られている。

「子どもがな自分で撮ってきて、競争みたいに貼っていくんよ。いまの高校3年生くらいの子が4・5年生のとき多かった。
「成人式がきたら、見せてよ、姿を」ってゆうたら「あぁ、来る、来る」やゆうて貼っていくけんど「わたし成人式じゃ」ゆうて来る子は少なかったな」

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街角から子供たちの姿が減ってゆき、話し好きな駄菓子屋のおばあちゃんもいつのまにか忘れられていくのだ。

数年後、もう一度訪ねたとき、田舎の小さな店を廻って商品を卸していた人が引退して、新しい商品が入手できなくなって困っていた。私が徳島市内に住んでいることを知ると、定期的に菓子問屋から菓子を仕入れて運んでくれと頼まれたが、断ってしまった。

もし毎月ここに菓子を届けていたら、私の人生はいまと少し違っていたかも知れないと思うことがある。

2021年のストリートビューを見ると、すでに赤沢商店は店じまいしてしまっている。

(2007年02月04日訪問)