実は、市街の寺を見たあと鳥取砂丘へ向かったのだが、GWのためか大混雑。市街から砂丘に向かう道路がすでに車で詰まってしまっている状態だったので、砂丘訪問はあきらめ、この摩尼寺へと来ていた。
もっとも摩尼寺は市街からは鳥取砂丘方面にあるため、渋滞に巻き込まれかなりの時間を失った。
名刹らしく門前町を形成している。
お店は参道の両側に3軒ずつ、計6軒。そのうち2軒が営業していた。名物は山菜料理という。
門前町のどんつきからは長い石段になっている。
ここからは歩きで行くしかない。
参道から門前町方面を見下ろしたところ。
途中に総門の三間一戸楼門の仁王門がある。
二階の高欄の下の出し桁が妙に密集してキモイ。
仁王門の後ろに扉があるので、そこから二階へ登れるのかと思いきや、
なんと高欄の下に鉄砲階段があった。しかもうれしいことに登っていいようだ。
それにしても奇妙な高欄の処理だ。普通、斗栱で持ち送っていくところを、出し桁を重ねてそのうえに丸桁を載せて高欄の床を載せている。
二階の高欄の降り口。
高欄に膨らみを付けて、周囲を一周歩けるようにしてあるという親切設計。
二階の室内には十六羅漢が祀られている。楼門の二階に羅漢を祀るのはよくあることだ。
総門からはさらに石段が続く。
参道はL時型に折れ曲がり、山門の薬医門。
右側の石垣の上に鐘堂がある。
伽藍配置はこのようになっている。
裏山にこの寺の縁起に出てくる立岩という奥の院があり、六角堂や三十三観音のミニ霊場を形成しているようだが、時間も押しているので登らない。
摩尼寺の縁起によれば、子どものいなかった長者が願掛けして女の子をもうけたが、8歳になったとき龍に変化して天に昇ってしまった。龍はさいごに立岩に立ち、帝釈天に姿を変えたという。帝釈天が出現した場所に寺を建てたのが摩尼寺の始まりである。
薬医門をくぐると香炉堂があり、青面に本堂がある。
本堂は、なんというか、とっても江戸末期的。
建坪に対して床がずいぶん高めに造られているが、それについてはこのあとその理由がわかる。
事務所で拝観受付をしたら、厳格なおばあちゃんが境内や本堂を付きっきりで案内してくれた。本堂拝観料は300円。
本堂の床下が高い理由はこれ、戒壇巡り。
真っ暗な通路を進んでいくと、通路の中に錠前があり、それを触ることで本尊の阿弥陀如来と縁が結ばれる。かつては戒壇をわらじで歩いて、そのわらじを葬式のときに棺に入れる人がいたという。暗闇の中では「南無阿弥陀仏」なり「南無妙法蓮華経」でも好きに唱えればいい。この寺は宗派を問わないそうだ。
境内にはけっこう観光客が来ているが、誰も戒壇巡りの拝観は申し込んでいない。あまり知られていないようだった。
戒壇巡りの感想はというと、ちょっと残念な感じだった。
通路は直角で単調。しかも悪いことに壁に小さなスキマがあり光が漏れている。床は腐ってぶよぶよ。途中に天井が低いところがある。それもなにか宗教的な理由で障害が設けてあるのではなく、設計不良で床の梁が通路を塞いでいるようだ。帰路では出口の光が見えてしまい、本当の意味での暗闇の区間が短いのだ。
とにかく壁のスキマはいただけない。簡単な大工工事でふさげるはずだから、ふさいでほしい。
他の堂宇を見ていこう。
本堂の前には鐘堂と閻魔堂。
閻魔堂の内部。
中央の閻魔大王、左に司録、右に司命という書記官、その前には執行官の赤鬼、青鬼が配置されている。
赤鬼が扱っているのは、業の秤。
死者が生前に犯した罪の重さを計測する装置である。
左右には、十王と呼ばれる裁判官たちが並んでいる。
地獄行きの裁判は十審制なので、9回再審できるのだ。
一番左側に配置されているのは奪衣婆。三途の川で死者の衣服をはぎ取ると言われるばあさんである。
三祖堂とされるお堂。
中央に傳教大師、左に弘法大師、左に慈覚大師を祀っている。
三祖堂を過ぎると短い石段がある。
石段の上には如来堂。
如来堂内部は密教様式で、格子の奥は暗くてよく見えない。
手前の床に置かれた扁額からすると、千手観音と帝釈天が祀られているようだ。
如来堂の濡れ縁を回って裏へいくと、法界場という場所がある。
奥の院へはここから登るようだ。今回は登らないが、もしもう一度この寺に来ることがあれば必ず登ろう。
境内には他に庫裏。
庫裏の前には中門の薬医門があった。
(2005年05月03日訪問)
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