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一の鳥居をくぐり、石段を少し登ると踊り場があり、右側には井戸がある。
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井戸の対面には神厩舎。
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神馬は木像で、リアルな造形をしている。
上部の貫に蟇股みたいな意匠があり、「猿」の文字が透かし彫りされている。猿は馬の守り神とされていて、日光東照宮の三猿も神厩舎に作られている装飾だ。
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少し石段を登るとまた踊り場があり、その踊り場にも小さな末社がある。
これは左側の末社。
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右側も客人神社。こちらの祭神は豊玉姫命になっている。
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石段を登り切り、境内の最上部へ至ると、まず右側に水盤舎がある。
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この周囲にあるぼんぼりには「皇紀二千六百年記念」の文字が見られる。
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さて、この神社の拝殿も重層の作りである。案内板によればこの社殿が整備されたのは室町中期(1503)とされているそうだ。だとすれば先ほどみた古熊神社よりも古い建築ということになる。
そこで改めてよく調べてみると、論文『山口地方独特の神社建築』(1980・内田伸)に「楼拝殿」という用語があることがわかった。現在ネットで参照できる論文としては『山口地方の楼拝殿とその祭儀について』(1988・藤沢彰)によってよくまとめられている。
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藤沢の論文によれば、その原形はは防府八幡宮の旧社殿という。
だとすれば「防府八幡造り」のような名称も考えうるが、現在の防府八幡宮は再建なのでよりどころとしては弱い。しがたって「楼拝殿」の名称が適切なのだろう。当サイトも今後は「楼拝殿」の呼称を使おうと思う。
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藤沢は、門には分離と開放の両義性があるので祭儀を行なうことがあるとまとめているが、個人的な感覚からすればやはりこれは門ではなく拝殿であろうと思う。床のある空間を門として捉えるのは、ややこじつけに感じるのだ。
その点「楼拝殿」という呼称は、語感が拝殿のイメージなので受け入れやすい。呼称が「拝楼門」でなくてよかった。
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一応、当サイトとしては楼拝殿を拝殿と見なし、その後ろに幣殿、その後ろに本殿が並ぶと捉えることにするが、まあどうでもいいことかも知れない。
神社の案内板を読むと本殿は1503年とあるが、古熊神社の案内板同様、楼拝殿が1503年造であるかはあいまいな文脈になっている。楼拝殿の柱の風化などを見るとたしかに古そうだが、本殿のかもしだす雰囲気が中世っぽいのに対して、楼拝殿の雰囲気は多分に江戸っぽいのだ。でも一括して国重文指定されているので、楼拝殿も室町なのかな。
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本殿は三間社流造りで国重文。
そういう修復がされているからだろうが、ぱっと見にも安土桃山か室町かというような雰囲気だ。
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三間社流造りとは、間口側からみて柱が4本、柱間が3間ある流造りのことである。
写真右側には、渡り廊下でつながった建物がある。
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普通なら社務所か?と思うような場所にあるが、どうも社務所っぽい造りではなかった。
祭事において準備をするための場所のような気がする。
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本殿の周囲にも小さな末社があった。
これは恵比寿社。
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稲荷社。
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現在は資材置き場のように使われている。
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こちらは一番大きな末社の八柱神社。
(2003年09月06日訪問)