極楽寺

西と南の二面に環濠が残っている。

(群馬県前橋市亀里町)

この日、私はむかしよく一緒に寺巡りをした旧友と、わずかにあいた時間を利用して下川淵地区を訪れていた。そして極楽寺に向かう道でこんなことを言われた。

「極楽寺の前の道は"鎌倉街道"という名前で、これは鎌倉に同名の極楽寺があることと関係がある、ってお前が高校生のころ、この場所で言ったよな!」

「お前」とは私のことである。そんなことを本当に言ったのだろうか、まったく記憶がない。その場は「それ、たぶん出まかせで創作した伝説だと思う」と応えておいた。諸星大二郎のファンである私は、時々いかにもありそうな伝説をでっち上げたくなってしまうのである。

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だが、家に帰ってからよくよく調べてみると、確かにこの道を「鎌倉街道」と呼ぶことがあるようだ。

そもそも極楽寺の前の道は、集落内の行き止まりの道であり、他の町まで続いている街道ではない。それを鎌倉街道というのは不自然で、やはり極楽寺という名前から地元民が考えた洒落なのではないかという気がする。そう思う理由は、このあと訪れる善光寺の前の道を「信濃街道」と呼ぶことがあるらしいからだ。それぞれ、有名な寺と同名の寺があることから、「鎌倉街道」、「信濃街道」と洒落たのではないかと思うのである。

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さて、その極楽寺だが、ここも環濠屋敷の形態の寺である。

濠は、西と南にあり、南側は石垣になっていて特に立派だ。

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境内の入口は土橋になっている。

石門の左右には地蔵堂があり、どことなく八脚門のような雰囲気だ。

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本堂に参拝するまえに、まず寺の外周を観察してみよう。

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濠の南西の角には鐘堂がある。

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濠の南西の角から、東方向を見たところ。

濠は直角に曲がっている。

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濠の南西の角から、北方向を見たところ。

濠は北へいくにつれて流れ込んだ土で埋もれて、細くなってゆく。

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本堂の裏辺りでは、さらに細くなっている。

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裏手は竹林になっていた。

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山門に戻って、本堂に参詣する。

本堂前には、後生車のついた石灯籠があった。

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この種の、黒御影石でできた後生車はほかでも何度か見かけているが、軸の摩擦が強くて重いし、表面は滑りやすくて回しにくい。

これ作っている業者は、もうすこし改良して欲しいものだ。

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本堂。

屋根は、昭和の一時期流行した、桟瓦風の銅板葺き。

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ぬれ縁には賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が置かれていた。

賓頭盧は釈迦の弟子の一人で、羅漢という位にまでなった。しかし修行で得た神通力を人々に見せびらかすために使ったことから釈迦にたしなめられ、釈迦の住む寺に出入り禁止となってしまった。

そのため日本の寺でも賓頭盧尊者は、本堂の外に祀られるようになったのだという。

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本堂の右側には、玄関と庫裏。

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本堂の左側には薬師堂と、宝庫。

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薬師堂の内部を見たところ、護摩堂のような作りになっていた。

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本堂の右裏手には水子地蔵堂。

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ここからは、境内の外になる。

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環濠の西側には墓地があるが、その一角に濠に囲まれた小島のような場所がある。

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弁天宮ということにしておく。

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その小島の前に赤城塔がある。

この塔は、源義経の母、常盤御前を供養したものだと言われている。先ほど紹介した亀里町竜門には義経を追って奥州に向かう常盤御前が立寄ったというような伝説がある。その関係であろうか。

夫である源義朝が平家に敗れたとき、常盤御前は奈良県吉野町竜門という山里にかくまわれたとされている。先の亀里町竜門と同じ地名であることからこうした伝説が生まれたのかもしれない。

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境内の西側には墓地がある。

その一角に、形容しがたい堂がある。

本サイトの定義によれば、野辺堂ということになるが、内部には石仏が置かれている。

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羅漢であろうか。

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境内の北東の角。このあたりにもわずかに濠の痕跡がある。

(2014年12月21日訪問)