続いて、田ノ久保の集落へ登り返す。
田ノ久保は険しい山の尾根にある集落だ。
国道からの標高差は250mほどあるが、車道もあるので難なく訪れることができる。
もっともこの集落が成立したのは、自動車もユンボもない時代で、人力と牛馬の力だけで人はこの場所に村を作ったのだ。
村の中心から那賀川下流を見おろしたところ。
国道195号線が見えている。つまり、国道からもいま私が立っているこの場所が見通せるということでもある。
村の中は舗装道路はつづら折りの一本道。その行き止りも人家の庭である。
こんな集落に車で入って行くのは目立つし、気が引けるのだけど、1/25,000地形図を見ると道の行き止りにお寺のマークがある。何か言われたら、お寺を見に来たと言えるので助かる。
現在の村の産物はコメとミカン。コメはすべて自家用だろう。こんな険しい土地でもコメが作れるということに驚く。
いやむしろこれほど険しい場所だから、自動車が普及する以前にはコメでも麦でも大豆でもすべて作って、ふもとへは塩を買いに行くくらいの生活だったはず。
ミカン栽培が始まったのはおそらく最近で、もともとは林業が中心だったのではないかと思う。
地形図を見るかぎり、人家は5戸。
かつて何十戸が住んだという風情はなく、たぶん、200年くらいのあいだずっと戸数は変わらなかったんじゃないかな。
現代の家族制度では子供が2人産まれたら、新居が1戸増えるという計算が成り立つが、ここでは長いあいだ子供が何人産まれようと、村の戸数は変わらなかったのだろう。
舗装道路が終わったところから、お寺がある場所までは少し徒歩で登らなければならない。
写真の奥に人家が見えるが、その家へは車では行くことができないのだ。
深く落ち込む谷と棚田はいかにも徳島のサンブン地方らしい風景といえるだろう。
人家を過ぎると森の中の道になる。
山から引かれた用水があって、分水が作られていた。別の家の田んぼに水を分配するのだろう。
この地方は、年間3,000mmもの降水量がある日本有数の多雨地帯。水に困ることはなさそう。
少し森の中を進むと小屋があった。
お堂の庫裏というか、籠り堂のようなものと思われる。
本堂。
建物は新しいけれど、石垣を見ればかなりの歴史を感じる。
中をのぞいてみると弘法大師の掛け軸があった。
よって、この寺のタイトルを「大師堂」としておく。
建物はこの宝形のお堂と籠り堂だけ。
先にはまだ山道が続いていたが、先にはもうお堂などはなさそうだった。
(2007年05月27日訪問)
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