玉村早春の三大祭りのうち2つを見たわけだが、3つ目の祭りは15時からなので少し時間をつぶすことにした。せっかくなので玉村八幡宮へお参りしていこう。
こちらの神社には高校時代に来たことがあるが、あまり印象がなかった。当時群馬県には国重文の建造物は玉村八幡、雷電神社、日向見薬師堂、貫前神社、世良田東照宮のわずか5件しかなく、そのひとつなのだからかなりのインパクトがあるはずなのだが、高校生の私には何となく普通の神社に見えてしまっていたのだ。
境内図。
ずいぶんあっさり目に描かれていて実際にはもう少し社殿が多い。それに鳥居から楼門までが短く描かれているが実際は100mの長さがあり、楼門前にも車道が横断している。
楼門前を横断する道路。
境内の西側には大きな造り酒屋がある。
道路に面して山車倉庫。
随身門は楼門で江戸後期の建築。
町指定重文。
内部の随身。
状態がとてもよい。
随身門を過ぎると右側に社務所。
社務所の横には力石。
社務所の裏側には経蔵と思われる建物がある。
神仏混淆時代のお寺のお堂が神社内に取り残されたのではないか。
随身門を過ぎて左側には三猿。
よみガエルくん。
よみガエルくんの裏手には末社の淡島神社と猿田彦神社。
手前の碑文は平成2年(1990)のご大典記念碑。手水舎、随身門、国旗掲揚塔の整備を行ったと書かれている。随身の状態がとてもよかったのはそのとき修理したからなのか。
その横には御神木の夫婦楠木がある。
水盤舎。
水盤舎を過ぎると、中門の棟門の神門がある。
この門の前は濠になっていて、本殿を囲むように水がある。
前橋市南部、高崎市東部には家の周りに濠をもつ環濠屋敷が点在しているが、私はこれもその一種だと見なしている。
いつか玉村町でも環濠屋敷探しをしてみたいな。
中門を過ぎると左側に神楽殿。
神楽殿は北向きで、本殿と対面する角度で建っている。
神楽殿の横には石祠の末社と猿田彦大神の文字碑。
石祠は左が稲荷社、右が古峯神社。
中門を過ぎて右側には弁財天社がある。
環濠から水を引いて池が造られていて、中島に建っている。
中門の正面には拝殿。
唐破風に鳳凰。
向拝柱の欄間には龍。
木鼻には獅子が彫られている。
勘違いしがちなんだけど、このゴテゴテした彫物のある拝殿はあくまでも町指定重文で、国指定重文は本殿のみなのだ。
こちらが国重文の本殿。室町時代末期の建物と考えられている。
明治41年、群馬県で初めて国重文に指定されて寺社建築である。昭和4年の国宝保存法では国宝と国重文の区別がなかった。昭和25年の文化財保護法で、国宝と国重文が改めて再分類された。そのため旧法で国宝指定され、新法で国宝にならなかったものを「旧国宝」とも呼ぶ。
私が高校生のころはまだ「国宝 玉村八幡宮」という石碑があった。
で、改めて訪れてみて「確かに室町時代の社殿はしびれるな」ってなったかというと・・・ごめん、やっぱり普通な印象しか残らなかった。
虹梁の形状などにやや古い建物の感じがする程度。
社殿は入母屋平入りの拝殿と三間社流造りの本殿が強固な幣殿で接続されたいわゆる「権現造り」。
私は権現造りという分類はわかりにくいのであまり好きじゃない。そう呼んでしまうことで、拝殿や本殿の本来の造形の意味が隠れてしまうからだ。あくまで「入母屋平入りの拝殿と三間社流造りの本殿が幣殿で接続されている」でいいと思っている。
本殿の左側には奉安殿がある。
奉安殿は戦前に国家神道を強固なものにするために学校に設置されたもので、天皇の写真と教育勅語を納めていた。
昭和20年(1945)、GTQの指示でこの仕組みは廃止され、ほとんどの奉安殿は破却された。
これは玉村小学校の奉安殿を昭和45年(1970)に移築したものだという。奉安殿には「これは奉安殿とは関係なく、元から神社でずっとここにありましたが、何か?」みたいな体のものがわりとある気がするのだが、これははっきり奉安殿とされている群馬では珍しい物件のひとつ。
基礎の風窓。開閉できるようになっている。
奉安殿背面。
奉安殿の奥には土蔵と末社のアパートがあった。
神社の一の鳥居の前は例幣使街道が通っている。
例幣使街道とは、江戸時代の脇街道で、朝廷かの使者が日光東照宮へ参拝するために整備された道だ。
鳥居の向かい側は薬屋で、自販機コーナーにコンドームの自販機があった。このタイプは珍しいのではないか。
(2005年02月10日訪問)
