きょうは水上温泉にストリップ劇場を探しにいくのだが、下調べの様子では発見できる見込みもあまりなく、少し付近の観光でもして温泉に入って帰ろうと考えている。
最初に訪れたのは千日堂。二つ名を茂左衛門地蔵ともいわれる。上毛かるたに天下の義人と読まれた江戸時代の農民、杉木茂左衛門を祀るとされる寺だ。
国道沿いに細い参道があるが、ここはJR後閑駅から徒歩で参詣するための道で、車の場合は境内まで直接乗り入れることになる。
少し回り道をして、境内の西側から入る。
朱塗りの鐘堂が遠目に見えて、どんな賑やかな感じのお寺なのかという期待が高まる瞬間。
境内に入ってみると、、、あれ?
やけに閑散としてる。こんなだったっけ?
子どものころ一度来たことがある、そのおぼろげな記憶では、香炉からは線香の煙が絶えないくらい賑やかな寺だったような気がするのだが。
浅草寺とかの記憶が混ざっちゃったか。
茂左衛門について語るまえに、少し歴史のおさらい。
江戸初期に沼田地方を収めたのは真田家だった。真田家については、昌幸と幸村親子が有名で、豊臣方に組みし、その最後は多くの物語に語られてきた。しかし幸村の兄信之は徳川方に味方して戦国の世を生き延びた。東西どちらが勝っても、真田家を存続させることを考えた深謀だったのだろう。
戦後、真田信之は長野県松代10万石と群馬県沼田3万石、合計13万石を治める大名となった。
大河ドラマなどを見ている人ならば、信之まではその名前を覚えているはずだ。ただ信之の子や孫の時代となるとほとんどの人は関心がないと思う。
実は、信之の孫の代になって真田家では相続争いが発生し騒動を起こしている。結果として信之の孫信利が沼田3万石、その従兄幸道が松代10万石を相続することになった。しかし信利は松代を相続したかったのだろう。松代10万石への対抗心で、沼田の石高を水増しして14.4万石と申告した。
実際の田畑よりも多くの年貢を取り立られたせいで沼田城下では餓死者が出るほど領民は困窮した。
さて、ここからが茂左衛門の物語。沼田城下の農民、杉木茂左衛門は幕府に対して窮状を直訴することを決心する。江戸で老中に直訴しようとするが失敗。次に一計を案じ、偽の幕府の文箱を作りそれがあたかも置き忘れられたように偽装することで、書状を徳川綱吉に送り届けたとされている。
これにより沼田藩の悪政が幕府の知るところとなり、真田信利は配流、沼田真田家はその子の代で滅亡する。
茂左衛門は直訴に成功したものの、当然罪を問われ妻子とともに磔刑となった。
その刑場の跡地に大正11年に千日堂が建てられ、人々の信仰を集めるようになったという。
茂左衛門が処刑されるとき、江戸から赦免の使者が向かっていたが、到着したときには刑が執行された後だったというような伝説もあるが、いくらなんでも後に作られた物語の脚色だろう。
個人的には、茂左衛門の物語のどこまでが史実なのかはわからないのではと思う。真田信利の配流は史実だが、そのきっかけが本当に直訴だったのか、それ以前に直訴が実際にあったのかというところから・・・。
そもそも封建時代に領主を訴えた罪人を供養するなどということが可能だったのかがまずよくわからない。こうした物語を実名で広めることができるようになったのは基本的に明治以降だからだ。
実は大賀ハス的なあれなんでは・・・。
COVID-19のためか、あるいは、きょうが平日だからなのか、休憩所のような建物があったが開いていなかった。
本堂の右側には二十三夜堂がある。
つまりはかつて月待ちのお篭りをした堂であろう。
二十三夜堂の内部の様子。
二十三夜堂の周辺には庚申塔がいくつか立てられている。
比較的、彫りが鮮明な青面金剛。
これは馬頭観音かな。
境内は小学校の校庭くらいの面積があり、その外周にいくつか建物が並んでいる。
鎮守社。
内部には素焼きの狐がたくさん奉納されていた。
これは衆寮ではないかと思われる建物。
博物館と思われる建物。
営業している気配がまったくない。
忠霊塔。
境内の外れに弓道場があった。
立派な垜がある本格的な弓道場だ。
実はこの千日堂には奥の院があるという。
その場所は境内から見える写真左側の段丘。
これから行ってみよう。
(2021年08月23日訪問)