極道の辻と川田劇場跡

高越鉱山の労働者たちの遊び場だったという。

(徳島県吉野川市山川町町)

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山川町へ移動。きょう最後の訪問地になる。

山川の名前は「山瀬町」と「川田町」が合併したことに由来する。

現在はJR阿波山川駅や国道192号線沿いが発展しているが、元々は山間地である美郷村の渓口集落的な地形にあり、実際古い町の中心は川田川の渓口部にある。

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渓口集落として古くは山村からの林産品や和紙原料などの集積地として発達したと考えられるが、戦後この町の発展に最も寄与したのは高越(こうつ)鉱山だ。

高越鉱山は徳島有数の銅鉱山で、索道が現在の阿波山川駅まで通じていたという。その当時は古い地名を冠した「湯立駅」という名前だった。

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高越鉱山は明治28年に開坑、終戦後の朝鮮戦争特需のころに最盛期を迎えた。

鉱山というのは山の中にひとつの町が突然生まれるようなものだ。地元の農家などからも働きに行ったが、外から流れてきた労働者が鉱山住宅に住み、家族なども含めれば数千人という人々が鉱山に関わって生きた。

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現在の中心街から川田橋を西に渡った一角は、かつて鉱山の男たちが集う遊興地だった。

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この鰻の寝床みたいな建物も、昔は旅館か料亭だったかもしれない。

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高越鉱山は3交代の24時間操業だったため、勤務明けの若者が真っ昼間からこの界隈にたむろし、ビリヤードなどに興じていた。料亭もあり金遣いの荒い男たちは一晩で10万円も飲食することもたびたびだったという。当然、そういう男たちを相手にする女もいただろう。

そのため近郊の村人にはこの一角はあまりいいイメージを持たれず、「極道の辻」と呼ばれていた。

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その一角に芝居小屋もあった。

「川田劇場」という名前で、理容店のとなりの敷地にあった。現在は空き地になっているが、大きな劇場だったことが偲ばれる。

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旅芝居の上演が多く、坂東妻三郎の芝居を観たなどと懐かしむ人もいる。

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高越鉱山は昭和46年(1971)に閉山し、芝居小屋も料亭も無くなってしまった。

いまの静かな町の様子からはまったく想像ができない。

(2007年01月01日訪問)