大御和神社から旧街道を西方向へ歩いてみた。映画館跡を探すためだ。たぶんあるとしたらこのあたりだろう。
道の先には、四国八十八ヶ所の第16番札所、観音寺の本堂の屋根が見えている。ちなみに観音寺には一度も参詣したことがない。ここまで来ても参詣しないのは、残りの人生でいつか八十八ヶ所を廻るときの楽しみに取っておくという理由なのだが、はたしてその機会があるのかはもうわからない。
しばらく行ったところで、父親が映画館の経営をしていたという人に出会えた。
映画館の名前は広栄座。戦前からあり元々は芝居小屋だった。2階桟敷があり天井は格天井、花道もあったという。回り舞台などの地下を必要とする設備はなかったそうだ。旅芸人の一座などが泊まって上演したのを覚えているという。平場は板敷きで、座布団が敷いてあった。客が少ないときは座布団を枕に、寝ころんで観劇する人もいたという。
男性のお父さんは元々移動映画をやっていたが、戦後、広栄座のオーナーと共同経営で映画館を経営し始めたのだそうだ。父親はトーキーの技術開発もした人だったそうだ。
映画館があったのはこの路地の奥の敷地。入口にはゲートがあったという。昭和34年ごろまで営業したが、テレビの普及で閉館することになった。
広栄座の跡は木工の工場の跡になっている。
建具の工房で、現在は小松島のほうで二ホンフラッシュというドアメーカーになっている。(合併している?)
広栄座が閉館したあと、その建物をそのまま利用して木工所にしていた時代もあるそうで、現在の建物と広栄座の建物の場所は同じだという。
男性は子どものころ映画館を手伝っていた。切符をもいだり幕間でレコードをかけたりした。そのおかげで映画はいつでもタダで観ていた。
フィルムは、一宮にあったハセガワという映画館と共通だった。リールは父親がオートバイで運んでいたが、男性が自転車で運ぶこともあったという。
映画館の敷地の横には、
かつて県道の南側には染物屋があり、川で糊落としなどをしていたという。写真中央に見える足場の跡のようなものはその痕跡かもしれない。
県道の北側には麩の工場があったそうだ。
少し下流で2つに分水している。
以前は擁壁ではなく石垣で、そのころはホタルが見られたという。
そう言えば・・・一宮の映画館跡って一度も調べに行ったことがなかった・・・。
聞いた話からすると、この辺じゃないかと思う。
(2008年04月20日訪問)