功山寺

国宝の仏殿を擁する名刹。

(山口県下関市長府川端1丁目)

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長府地区には仏殿をもつ禅院が2ヶ寺ある。功山寺はそのうちの一寺。

門前にも5~6台の車が止められる駐車場がある。今回は徒歩で寺巡りをしているが、町並み観光をせず、寺だけを巡るのなら車で廻ればよさそうだ。

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伽藍配置図を見ると、仏殿は法堂の左側に独立して建てられている。こうした伽藍配置(仏殿と法堂の位置関係)はこれまで山口の旅でいくつか見てきている。

山口の仏殿の特徴と言ってもいいような気がしてきた。

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では順に堂宇を見ていこう。

まず境内の一番外側にあるのが総門の四脚門。かなり年期が入っており、新しい部材もあるものの骨格は江戸初期くらいまでいくのではないか。

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総門を入って進むと楠の林が続く。中々にいい雰囲気だ。

途中、左手に地蔵堂がある。周囲はうっそうとして堂には電灯がともっているが、まだ午前中だ。朝から雨がちの曇天で、このとき使っていたNikonのデジカメはちょっと曇ると1/30、1/15というようなシャッター速度になり写真はぶれがち。

このカメラで撮った写真の過半数は1/60以下シャッター速度だった気がする。とにかく暗いカメラだった。

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地蔵堂というと素朴な堂を想像しがちだが、これはしっかりとした気密性の高い建物で、網入りガラス越しにしか中をうかがえない。

地蔵半跏趺坐の姿をしている木像で大きな像。平安時代末期のものだという。県指定文化財。

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続いて、山門があるのだが、先に山門の横にある通用門を紹介しよう。

伽藍配置図によれば「桜門」となっている。

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柱は6本あり、こうした門を「四脚門」という。理屈の上では4隅の柱で屋根の荷重を受けている門を四脚門と呼ぶのだ。だがこの門を見ると中央の2本の柱のうえに屈強な板蟇股があり、梁を肘木で受けて積極的に中央の柱に重さが掛かっているから6脚の門、考えようによっては2本脚の門に添え柱が4本あるというようすら見える。でもまあこれは四脚門なのだ。

一方で柱が4本の門は「薬医門」というのでまぎらわしいが、理屈ではなくそういうものだと考えたほうがわかりやすい。

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桜門の横に柱が2本の門がある。

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柱が2本で、屋根がある門は棟門である。

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メインの山門である三間三戸二重門。

2階建ての門で、1階と2階のあいだに屋根があるものを「二重門」、ないものを「楼門」という。まあ広義には二重門は楼門の一種と言ってもいいように思う。

また正面から見て間口が3間あり、そのうち通行できる部分が3間の場合は、通行できる部分を「三戸」として、門の規模を「三間三戸」と表現する。

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三間の楼門(または二重門)の奥行きは一般的には2間。まれに3間の場合もある。

奥行き2件の楼門の柱の数はこのように12本である。柱の数が12本の門は、柱の数だけに着眼すれば「八脚門」と呼ばれる。だが一般に八脚門と言うときは平屋建ての仁王門のようなものであり、2階建ての場合は「2階建ての八脚門」とは言わず「楼門」というのが普通だ。

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山門を入って正面にあるのがこの仏殿。

1320年(鎌倉時代)末期の建築とされ、唐様の見事な建物。裳階部分の屋根の緩い傾斜とほどよい反り具合が鎌倉時代らしい研ぎ澄まされた美しさを見せている。

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仏殿の背後には毛利家の墓所があり、少し高い位置から屋根を見おろすことができる。

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内部の床は四半敷きという、タイルを45度に敷き詰めた禅宗らしい造り。仏殿にはこのように床がなく土間になっている。

大内氏が毛利元就に攻め滅ぼされたとき、最後の当主大内義長はこの寺に追いつめられ、この仏殿内で自害したと伝えられている。

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仏殿の右側にある法堂。

中の様子は確認できなかったが、よくある本堂型式ではないかと思われる。

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法堂の向かいにある輪蔵。

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地蔵格子のスキマから中を覗いてみると、極彩色の精巧な廻り経蔵が見えた。

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安土桃山時代くらいはいきそうな感じ。

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法堂の右側には玄関、さらにその右側に庫裏。

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庫裏の前には井戸がある。水が常に流れており飲めそう。自噴井戸なのか。

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同じく庫裏の前にあった鐘楼。

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他に庫裏の通用門の三間一戸棟門があり、庫裏の横にも駐車場があった。

功山寺は境内の雰囲気もあり、地方禅院好きにとっては必見の寺だった。

(2004年05月04日訪問)

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西 和夫 (著)

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寺院建築の架構が最も理解しやすく書かれている本だと思います。