小坂子十二は、小坂子一区のさらに小さな地区の名前だ。この地区の稚蚕共同飼育所は、道から奥まったところにあり、建物もかなり小さい。これまでの飼育所を見る以前だったら、たぶん私はこの場所に来ても稚蚕共同飼育所に気付かなかったに違いない。
写真の中央の道の奥に在る建物がそうだ。
建物はいままでに見た飼育所の中ではもっとも小型で、造りも簡素だ。屋根は石綿スレート波板葺き。主出入口は南向き。正面はタタキになっていて、左側には水槽が見える。この水槽は飼育器具の消毒に使ったのではないか。
飼育所の周りで写真を撮っていたら、となりの農家の人が来て、理由を話したらカギをあけて中を見学させてくれるという。
内部の様子。現在は集会所のような目的で使われているが、集会に使うのは奥の宿直室と貯桑場の部分だけで、飼育室の部分はほぼ完全な形で残っていた。
ムロは左右に2室づつ。1室には蚕箔が10段×3列セットできるようになっている。フル稼働させれば全部で最大120枚の蚕箔が使用できる計算だ。
ムロの戸は紙張りのため、紙が傷んでところどころ破れているが、内部は当時のままだ。
給桑や
ムロの下部。ムロを加温するための電熱線が見える。このようなムロの形式を電床式という。
金丸の飼育所ではここに床砂を敷き詰めていたが、ここでは断熱材が敷き詰めてあり、砂を満たした痕跡はなかった。
どのようにして加湿していたのかは、聞き忘れたためはっきりとはわからないが、ムロの内部を加湿するのではなく、蚕箔の上にパラフィン紙をかけるというようなことを言っていたので、蚕箔単位で保湿していたのではないかと思う。
ムロの中には糸網も残っていた。
糸網は、除沙のときにカイコだけをすくい上げるためのネットだ。カイコの上に網をかぶせ、上から新鮮な桑を与えると、カイコは網の上に登り、食べ残しの桑や汚物と分離できるのだという。
糸網は左右に骨(写真で黒く棒のように見える部分)があって、このように拡げて使うのだそうだ。
続いて、宿直室を見せてもらった。宿直室は6畳。
ここは現在は十二地区の集会所になっているので、多少手を加えてあるようだ。
宿直室の隣にも6畳の空間があって、現在はひとつの部屋になっているが、ここは元々は貯桑場だったのを改造したのだという。地下室は今でも残っていて、板でふさいである。
わざわざ畳をどけて、地下へ降りる階段がある場を見せてくれた。この板の下が階段なのだそうだ。
写真奥にある黒板は、飼育所での作業や桑の搬入などの当番表を書いたものだろう。
宿直室横には
卵から孵った直後のカイコの1齢幼虫はとても小さく、1cmくらいの距離しか移動できない。桑の葉を細断してまんべんなく与えなければならないのだ。このような機械ができる前は、包丁で桑の葉を刻んでいたという。
挫桑の作業をする場所を挫桑場(ざそうば)というらしい。貯桑場の上がそうだったのではなかろうか。
台秤が残されていた。
「贈 塩原蚕種株式会社」と書かれている。午前中に見た蚕種メーカーだ。かつてこの地域の蚕種はすべて塩原蚕種から購入していたという。
ムロの上にも収納空間があり、桑摘篭が残されていた。
ムロの戸が紙張りになっているのが見えると思う。障子のように桟があるが、両面に厚紙が貼られていて、一般家庭の障子とは違い、むしろ襖に近いものだ。これを閉じると中は押入れの中のように暗くなるが、中は真っ暗でも飼育には問題ないという。
ムロの中には給桑篭が残されていた。
蚕座紙のような消耗品を除いて、稚蚕飼育に必要な主要な耐久財はほとんど一通りそろっているようだ。
採光、換気用の高窓を中からみた様子。
手前にはムロがあるので、直接に窓を開け閉めすることはできないので、写真のようにヒモを引いて開け閉めしていたようだ。
この写真を見れば、飼育室の窓が高い位置にしかない構造上の理由がわかるだろう。
私はこの飼育所を見学するまでは「稚蚕飼育所は稚蚕を飼育するだだの倉庫みたいな建物」くらいにしか理解していなかった。したがって、この旅はかなり退屈になるのではないかと懸念さえしていたのだ。
ところがここにきて、稚蚕共同飼育所にはムロという小部屋や桑を貯蔵するための地下室があるといった共通項が見えてきた。そしてその共通項は「ただの倉庫みたいな建物」というにはあまりにも特徴的なのだった。このことは、稚蚕共同飼育所巡りを企画した自分にとっても意外な展開であった。
(2007年01月14日訪問)
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渡辺裕美 (監修)
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