旅の6日目。宿泊した福山市から広島県の内陸方面に進み、

だが、龍華寺に着いてみれば門前には旅館が何軒かあって、その気になって探せば宿はあったかもしれなかった。
もっともこんなひなびた町では、看板を出していても営業していない旅館が多いので油断はならない。
とにかく龍華寺は門前に旅館街があるほどの巨刹なのであった。

龍華寺は今高野山と呼ばれ、かつて、高野山直轄の荘園“大田の荘"として栄えた場所なのだという。「今高野山」は現代風に言えば「新高野山」と言ったところか。
境内の全容は左図のごとくである。境内は山の北面にあり、参道、山門も北向きである。
総門からつづく長い参道の両側にはかつての子院の跡が続き、参道の突き当りには神社、その左側が寺になっている。
子院は12院あったといい、現在は安楽院と福智院の2院が残っている。

境内に入って最初にあるのが総門の四脚門。室町時代後期の門だという。言葉通りならば国指定重要文化財に相当すると思えるが、私の観察したところでは「当時の礎石の上に、当時の木材の一部を再利用した門が建っている」という風情で、あまり見るべきものはないと思われる。
一応、県の重文に指定されている。

山門をすぎると、緩やかな坂道が続いていて、その両側は子院の跡地になっている。

参道の右側にあった子院の跡。
(子院の名称は案内板に書かれていたのだが、デジカメの解像度不足で読み取ることができなかった。)

参道の左側にあった子院、安楽院。
現在は四脚門だけがあり、境内は更地になっている。安楽院の本堂(書院)は、龍華寺本坊の書院として移築されている。その書院はガイド本によれば「室町期の住宅建築で県重文」などと書かれている。 ホントか? 室町の住宅建築が残っているとしたら、ただごとではないと思うのだが。私は疑り深い性格なので、いまだにその解説は疑っている。

おなじく、参道の左側にあった子院の跡。
龍華寺の龍華寺らしいところは、この参道の両側につづく更地だろう。この更地をみて、往時の繁栄を偲ぶのがこの寺の楽しみ方なのだ。
参道の両側は八重桜の並木になっていて、石畳が桜色に染まっていた。

参道の突き当りには太鼓橋がある。

その太鼓橋を渡ると、

本殿は、春日造り。
左側が高野明神、右側が丹生明神。いずれも高野山と縁の深い神社である。
本ページでは、これらの社殿を独立した神社とは考えず、龍華寺の鎮守社(寺に付属する社殿)とみなしている。

本堂(手前)、大師堂(奥)、そしてさらにその奥には庫裏が見える。
(庫裏の左側、大師堂の向拝の下に小さく赤い屋根がみえるのが、移築された安楽院書院)

十王堂。大師堂の前にあり、大師堂に向かい合って建っている。

水盤舎と袴腰鐘楼。

寺の裏山は四国八十八カ所のミニ霊場になっている。所要時間は1時間半ということなので、登らなかったが、境内の左山上には丹塗の堂が見えていた。案内板によれば展望台であろうと思われる。
手前に見える寄棟の屋根は大田の荘歴史館。

寺の右山上にもなにか櫓状のものが見えていた。
案内板によれば監視哨跡という表記があったので、それに関連する施設であろう。
※あやしい城のD-oneさんによれば、戦国時代にこの山に高野山城という城があったらしい。この櫓は近くでみると3層の天守閣風の「古城山展望台」とのこと。
(2001年05月04日訪問)