その日は休日だったが、仕事の届けものがあって車で新宿の副都心まで出かけた。仕事が片付いて時計を見るとまだ午後2時。思えば新宿に来るのも久しぶりだ。夕方までの時間でちょっとぶらぶらすることにした。
新宿には色々な顔があるのだが、とりあえず当サイト的に採り上げなければならないのは富士塚であろう。日暮れまでの少しの時間を使って近くの富士塚をめぐってみた。
私の富士塚歴はまだ浅くて、南関東の富士塚も全て見たというわけでもないのだが、そんな乏しい知識の中から都下の富士塚の代表を一つだけ挙げろと言われたら、今のところこの鳩森神社の富士塚を挙げるだろう。23区内には登らせてくれない富士塚が多い中でここは年間を通じて登山自由だし、形式的にも富士塚の基本的な要素をよく具えた教科書通りの富士塚なのである。富士塚の基本を知るのには持ってこいであり、まさに富士塚めぐりの出発点にふさわしい富士塚と言えよう。
富士塚については初出でもあるので、簡単に説明しておく。
関東には富士山を祀る
鳩森八幡神社は、JR総武線千駄ケ谷駅から南へ200mくらいの場所にある。周囲は低層のオフィスビルが多く、だがちょっと裏にまわればまだ住宅が残っているような、山手線内の住宅地としてはよくある風景。
境内には巨木が多く、そこに神社があるということはすぐに見て取れる。境内には4~5台の駐車場がある。駐車場が一杯でも、周囲に路駐が可能であろう。
道を挟んで反対側には将棋会館というのがあって、その関係からか境内にも将棋堂という六角堂がある。内部は天童市から送られた巨大な駒が奉納されている。
また、写真ではわかりにくいがよく見ると、六角堂の宝珠の部分が将棋盤の足を逆さにした形になっているのが面白い。
神社の本殿。新しい建築だ。まだ築30年は経っていないだろう。
境内には木が多く、本殿の全景をカメラのフレームに納めることは非常に困難だ。
神楽殿。というより、能舞台か?
屋根を葺いた銅版がまだぴかぴかなので出来立ての建物なのであろう。
そして、これが富士塚だ。
木が茂っていてわかりにくいのだが、溶岩積みのピラミッド状に見える部分がそうだ。鳥居の上に頂上が見えている。塚の南側から見た光景だ。
鳥居をくぐると石の反り橋があって、手前は池になっている。もっとも菖蒲が植わっているだけで水はなかった。
こうした池は、富士塚にはある程度普遍的に見られ、富士塚の基本構成要素の一つだと言える。案内板には盛り土をとった跡だと書かれていたが、むしろ富士北麓の富士五湖を再現していると考えるべきであろう。
なぜならば、案内図にあるように、烏帽子岩、入定窟など、現実の富士山では北面にあるスポットが、ここの富士塚では南面に据え付けてあるからである。つまり、現実の富士山とは南北が逆に造られているのである。
稲荷社付近。
さて、山腹に作られた通路を上っていく。ここはちょうど五合目付近だろうか。
要所要所には実際の富士山を象徴するアイテムが見られる。
塚の左手には里宮(おそらく富士吉田市の北口本宮)を表わす祠がある。
六合目を過ぎたあたりからは、斜度も急になり、山肌は溶岩で固められている。
七合目には身禄の入定窟がある。身禄は、江戸時代に富士信仰を中興した修験者だ。
七合目付近から登山道を見下ろした様子。けっこう急なのがわかるだろう。
そして山頂には富士浅間神社の奥宮のミニチュアがある。
山頂から裏手の方には別の登山ルートがあり、同じ道を通らずに下山することができる。さざえ堂チックな巡礼空間でもあるのだ。
ルートには途中に分岐もあり、飽きない造りになっている。何度もぐるぐる廻ってしまった。
それにしても、なぜここの富士塚は南北が逆に造られているのだろう。ここに限らず都内の富士塚を見てみると、概して登山道が東側もしくは南側について入るものが多く、北面から登れる塚のほうがむしろ少数なのだ。この謎、富士塚巡りを続けるうちにいつか解明されるのだろうか。
(2000年10月14日訪問)
復興建築 モダン東京をたどる建物と暮らし (味なたてもの探訪)
単行本(ソフトカバー) – 2020/12/2
栢木まどか (監修)
関東大震災後、現代の東京の骨格をつくった「帝都復興計画」と、未曾有の災害から人々が奮起し、建てられた「復興建築」を通して、近代東京の成り立ち、人々の暮らしをたどります。
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