赤坂宿

皇女和宮降嫁を昨日のように語り継ぐ中仙道の宿場町。

(岐阜県大垣市赤坂町)

赤坂は中仙道六十九次の五十七番目の宿場町である。すぐ背後の金生山で大理石、石灰を産出し大きな石灰工場もいくつもあるのだが、町の中は宿場町の旧態をよくとどめている。

さて、赤坂宿の歴史にとって最大の出来事といえば皇女和宮降嫁である。和宮降嫁は遠い歴史の一コマというのではなく、赤坂に住む人々のアイデンティティに今でも強い影響を与えている出来事だと言っていいだろう。赤坂宿は和宮の宿泊地となったため事前に徹底的に整備され、見苦しくないようにという理由だけで街道筋のほとんどの家を幕府からの借金で建て替えさえしたのである。これを赤坂の人々は「お嫁入り普請」と呼んでいる。その後まもなく幕府は崩壊したため借金はほとんど帳消しになったそうである。

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中仙道の宿場町を歩くと、今でも和宮降嫁を昨日の出来事のように語り継いでいるところがある。この赤坂には「保存会」というファンクラブのようなものがあって、今でも和宮の遺徳をたたえて活動しているというのだから、宿場町に暮らす人々ににとって降嫁がいかに大きな出来事であったか想像できる。

赤坂河港付近の町並み。袖卯建の古い家が続いている。銀行、商店などがならび、街で一番にぎやかな地域だ。

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街の中心部にある桝形(ますがた)の跡。

桝形とは道がクランク状に折れ曲がっている場所である。宿場町や城下町などに見られる地割りだ。今では自動車の通行を配慮してゆるいカーブになっているが、ここがかつて桝形であったことはすぐにわかる。

この辺りにはお嫁入り普請で建てられた家が多く残っているという。

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桝形からJR美濃赤坂駅へと向かう脇道。あまり交通量はないようだ。いつまでも残したい風景である。

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町中には今でも営業している旅籠がある。(左写真、奥のガラス戸の旅館)

写真で見てもわかる通り人通りは少ない。観光客は赤坂河港も含め赤坂宿全体で5~6人程度だったろうか。

(2000年03月18日訪問)