旧富沢家住宅

群馬県を代表する重文古民家だが・・・。

(群馬県中之条町大道)

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旧富沢家住宅にやってきた。

群馬県を代表する国重文古民家で、日本遺産「ぐんまの絹物語」の構成文化財にもなっている。

でもねぇ、どう紹介していいのか悩む文化財でもある。

誰か、この建物の決定的な紹介記事を書いてくれないかなぁ。そうしたらブロガーも何も考えずにコピペできるのに・・・。

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とりあえず、群馬県の日本遺産の公式サイトから引用しておく。

「富沢家は地元の村の名主を代々つとめた旧家です。運送業や金融を行う一方、女性たちによる養蚕が行われました。この家屋は18世紀末頃の建築で、二階に専用蚕室を持つ国内最古級の養蚕農家です。大きな家で間口は23.9m、奥行きは12.9mあります。屋根に特徴があり、二階に光と風を取り入れるため茅葺きの正面を切り上げた構造です。」

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建物の概要は、平兜造り屋根、骨格は出し梁造り、右勝手の北関東の総二階養蚕農家のフォーマットに沿った養蚕農家といえる。

県の説明を鵜呑みにするなら「日本最古級の養蚕農家」であり、「18世紀末」にはこうした総二階の養蚕農家が出現していたということになるのだが、個人的には疑義を感じる。地域おこしの気持ちで前のめりになるのはわかるけれど、この説明どうなの? そしてこの説明を元に富沢家を紹介しているブロガーのみんなは疑問に思わないの? それともあれ、大賀ハスと同じで、業界的にその事には触れちゃいけないみたいな決まりなの?

この建物が18世紀末とされる根拠は神棚に置かれていた棟札だというのだが、そもそも棟札が本来取り付けられる場所と違うところから発見されたものであり、根拠として弱い気がする。

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養蚕農家として見るなら建築年代は幕末~明治初期と言いたいところをグッとこらえて、古くても19世紀後半といったところではないのか。あるいは18世紀末という年代が正しいとすれば、兜造り養蚕農家として復元したのが間違いなのではないか。

古民家が文化財に指定されるときには、その民家に加えられた改修をすべていったんリセットして柱だけにして、学術的に想像される創建当初の姿に戻す。したがっていま私たちの目に見えているのは、本来の風雪や時代感ではないのだ。

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文化財というのはそういうものだといえばそうなのかも知れないが。

富沢さんがこの主屋を中之条町に寄付したときにどんなふうな外観・間取りになっていたのか、どんなふうに暮らしていたのかを逆に見てみたかった気がする。

あるいは18世紀まで時計を巻き戻すのなら、その当時の家財、衣料、養蚕道具などを含めて、当時の生活や養蚕の手法がわかるような展示をしてほしい。

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では中に入ってみよう。

間取りは右勝手で、「デエドコ」と呼ばれる土間が、建坪の50%を占めている。

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土間の端は厩や唐臼場になっていてる。

手前の歯車のついた器具は、縄編み機。

年代はたぶん昭和だろう。日本最古の養蚕農家を学ばせるつもりなら、こういうものは片づけておいてほしい。

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カマド。

カマドの上側は天井がなく、煙は2階へ上がるようになっている。

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富沢家は江戸時代には名主を務め、その後も大農家だったろうと思われる。

おそらく家族も多く、使用人もいただろうから、大きな釜で煮炊きしていたのだろう。

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霊柩車。

手前の宮型のものが座棺輿で、後ろに見えている大八車が座棺輿を載せる台車ではないか。

家の中に置いておくものとは思えないので、村内の倉庫などを取り壊したときここに収蔵したのだろう。

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座棺輿は四十九院型とでもいえばいいか。4面には鳥居が付いていて、「発心門」、「修行門」と書かれている。

確認しなかったけど、残りの2つは「菩提門」、「涅槃門」かな。

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続いて、左側の座敷方面。

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座敷は食い違いのないいわゆる田の字間取り。食い違い4間取りにくらべ新しい形態とされるもの。

富沢家では前側の部屋は「ジャシキ」と呼ばれている。

ここは家族の居間であり、奥側に床の間があり仏壇や神棚が祀られる。

中央に囲炉裏があり、その上は暖気が上がるようになっている。

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この囲炉裏上の空間が富沢家の中でも一番見ごたえがあるところなのだが、本当に創建当初からこうだったのか、と考えてしまう。

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ジャシキの奥側は「オクリ」と呼ばれている部屋。

田の字プランの農家ではよく「ナンド」などと呼ばれている北側で採光のない部屋だ。ここは家族の寝室になっていた。

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このオクリは半分が下屋で、下屋部分には天井がなく2階に抜けているが、これは復元の間違いであろう。

寝室は冬の寒さに備えて気密性の高い部屋になっているのが普通で、天井がなくては寒くて寝ていられないだろう。

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オクリの上を2階から見たところ。

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一番左の部屋はデエと呼ばれ、明らかに格式の高い部屋になっている。

表側から、「オモテノデエ」、「ナカノデエ」、「ジョウダン」と呼ばれていた。

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上段の間は書院造で、農家としては相当に特別な作りだ。これほどの格式の続き座敷であれば、表側は濡れ縁ではなく式台玄関で復元してもよかったのではないか。

つまり、この家は養蚕農家としての復元でなくて、名主の屋敷として復元すべきだったのではないかと思うのだ。

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2階は養蚕の上蔟室のイメージの展示がある。おそらく明治~昭和時代に富沢家はここで養蚕をしていたことだろう。

だが展示してある回転蔟は時代的には非常に新しいものだから、富沢家で実際に養蚕をした昭和時代にはまだ使われていなかった可能性すらある。

江戸時代の養蚕は絵図などでわずかにその様子が伝わっているが、現代の養蚕の様子とは違いが多い。

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うん、やっぱり富沢家で一番面白いのはこの囲炉裏の上の空間だな。

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小屋の架構は扠首(さす)構造。

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妻側に煙出しがある。

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2階の南側は60cmほどの幅のバルコニーになっている。「出し(ばり)造り」あるいは「船枻(せがい)造り」などと呼ばれるものだ。

幕末~明治に養蚕の大規模化が求められる中で、通気が重要と気付いてから普及した構造であり、18世紀末という年代判定が素直に受け入れがたい最大のポイントである。

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敷地内にはほかに物置と呼ばれる建物があった。

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2階の雨戸がキツツキに食い破られている。

これ、なんでやるのだろう。遊びなのか、穴を開ける練習なのか。

(2017年05月07日訪問)