旅の5日目、最終日である。きょうは鳥取から松江へ帰りながら途中で伯耆大山の大山寺に立ち寄る計画。大山寺にけっこう時間が取られそうなので、早めに大山に着きたいところだ。
まず最初に訪れたのは、鳥取市の西にある湖山池という湖。「—池」という名前だが、実際にはかなり大きな汽水湖である。「池」という名前の水域では日本最大だという。
この湖には「石がま」というものがあるとうので見にいくことにした。あたりをつけた湖岸の道を走っていくと、岸辺近くに石組みが見えた。
あった! 石がまだ!
石がまはこのように湖の浅瀬に石組みを作り、冬にこの石のスキマで越冬する淡水魚を捕る罠である。
これはどうも使われなくなって壊れた石がまのようだ。
草が生えている。
よく見ると水中に木枠が沈んでいる。ここに魚を追い込むのだろう。
この石がまは、観光目的や文化財の復元目的で作られたものではなく、本来の用途で作られたものが朽ち果てているのだと思う。言ってみれば「ホンモノの石がま」であろう。
こちらも石がまの廃虚。
石がまが考案されたのは江戸時代で長く続いてきた漁だったが、現代ではほとんど利用されていない。
岸辺にはたくさん石がまの廃虚がある。
石がまは横から見ると富士山のような台形で、その頂上部分が水面から出ているのだ。水没している石がまは、昭和18年の鳥取大地震で崩れてしまったものだという。
湖岸に沿って走っていくといくぶんかまともな石がまが並んでいるエリアに出た。
人家も近く、護岸された場所に作られている。
とてもキレイな石がまがあった。
調べてみると、無形民俗文化財に指定され、保存会のような組織が保守し使っているもののようだ。
石がまの使い方は、越冬のため魚が石のスキマに入って休眠したところを狙う。1~2月の寒い日に舟を横付けし、5~10人ほどの男たちがこの石組みの上に乗り移る。男達は長い棒を石のスキマに差し込み、休眠している魚を追い立てて、岸側にある
たぶん棒などで音を立てて魚を追うのだと思うが、定置網などに比べてあからさまに効率が悪そうだ。
ひとしきり魚が集まったら胴函の入口の戸板を降ろし、中の魚をたも網ですくい取るという。この蓋がある部分が胴函なのだろう。主に狙う魚はフナだが、コイ、ナマズ、ウナギ、ワカサギなども獲れるという。
石組みの内部には魚の通り道が造られていて、胴函部分は定置網のように入った魚が溜まりやすい構造になっている。
胴函の手前、左写真でV字型に木の板が「返し」に相当する構造なのだろう。
奥のほうから追い立てられた魚がV字の細いところを通り抜けると、戻りにくくなり箱の中に溜まるというわけだ。
内部に魚道があるというのは、説明を聞いてもよくわからない。単に石のスキマのことなのか、明確にトンネル的な構造があるのか。
この穴から棒を差し込んで魚を追い立てるのだろうか。
蓋が取れている胴函があった。内部はなぜか2部屋に分かれている。
かつて魚の減少などの問題で、何度も使用を禁止されたりしたこともある漁法だという。だがすぐそばが日本海だから海の魚を捕るほうが漁獲は高いだろうし、職業的な海の漁師がフナなどをチマチマ捕るというのもあまり考えにくい。
漁師が時化たときにでも使ったのか、あるいは、近隣の農民が冬の楽しみとしてやった漁なのではないだろうか。
いずれにしても、この石がまを作る手間、保守する手間、漁をする手間に対して、獲れる魚の種類や量が見合わなくてすたれたと考えていいだろうと思う。
そうして、淡水魚を捕りたいという動機がなくなったあと無形文化財になり、いまは文化財として保存する目的で漁がつづけられている。
保存会がなければ、石がまの作り方も使い方も忘れられてしまうだろうから、それを維持していくことには意味があるだろう。
だが、もう保存のための保存になり、地域の生活の一部とはいえないものになってしまったのは寂しいかぎりだ。
石がまは湖山池の北西部分に集中していて、湖山池の他のエリアにはない。もちろん、この漁法をやっているのは日本でここだけだ。
明治の全盛期には80個の石がまがあったというが、いまGoogle Maps の衛星写真を見ると35個前後の石がまらしきものが確認できる。
石はかなり重いものが使われていて、湖という止水環境にあるので、100年、200年という単位でこの遺構は残り続けるだろう。
だがこれから将来も石がまが本来の動機で使われることは、もうないだろうと思う。
(2005年05月04日訪問)
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