鹿野町東の寺町3ヶ寺の南の寺、観世音寺。
浄徳寺の境内から伽藍の全容が見えている。所々に黄色い色彩があったり、本堂の裏側の山の斜面にいくつもの屋根が見えたりと、一見して華やかな寺だということがわかる。
実はこの寺、山陰地方きっての珍寺といわれる寺である。珍寺とは何かという定義もむずかしいが、簡単に言うと近代日本で好まれる静的、わびさび的な様式にこだわらず、もっと積極的な意匠、色彩、素材、装置を使って仏教や仏像をアピールすることをためらわない寺のことである。珍寺には地域的な偏りがあり、山陰地方にはなぜか珍寺が少ない。珍寺大道場によればこの寺が山陰で随一の珍寺だというのである。
ちなみに珍寺大道場の観世音寺の記事では情報提供は私ということになっているが、もうどういう経緯でそうなったのかまったく記憶がない。珍寺大道場の記事が書かれたのが1999年7月、私がこうして初めて訪問したのが2005年であり、あまりにも時間がたっている。


浄徳寺の駐車場に車を置いて、徒歩で観世音寺へ向かうことにした。寺町を南北に通る道は両側に明渠の水路を持つ時代を感じさせる道だ。

いまどきめずらしい大八車。観光用途でこれ見よがしに置いているのではなく、たぶん実用のために置いたものが時に忘れられて残ったものだと思う。

その道から細い路地を入った突き当たりに観世音寺がある。

山門はなく、観世音寺のシンボルともいえる黄色の堂が目に飛び込んでくる。

石州瓦の赤い色は、関東で育った私にはそれだけでもけばけばしく見えてしまうが、それと他の原色を惜しみなく使って、この寺独特の世界観を作り出している。
扁額には「海天佛国普陀山 不肯去観音鐘聲」とある。観音堂か?

堂の前に置かれた謎の石造。
だけでなく、円窓の中にも地蔵菩薩や、どこかの土産物の木彫りの鳥みたいなものが置かれているのが、カオスに拍車をかける。

とはいえ、極度に珍寺臭がするのは黄色の観音堂があるからで、本堂などの色彩は控えめ。
珍寺不毛の地、山陰にあるから最高の珍寺扱いされているが、石州瓦の色彩を差し引けば、関東や東海あたりの基準では地味な珍寺という感じになるだろう。
ちなみに本堂は「大雄宝殿」と書かれていた。この寺の住職はたびたび中国を訪れているらしく、寺の色彩や装飾に中国の影響を受けているのだろう。

本堂の右側には庫裏。
本堂と庫裏の間には渡り廊下があり、通常はここが玄関になっているのだがこの寺では六角形のはめ殺しの窓があり出入りはできない。
その横にはどういうわけか靴を結びつけた狛獅子がある。

本堂の左側には鐘堂。

鐘楼のさらに左には「中国北京仏学院 源真海法」と扁額のついたコンクリ製のお堂がある。
中には如意輪観音や不動明王、弘法大師などの石仏が納められている。砂岩みたいな石でできていて、島根の来待石か?

その隣りには地蔵堂。
金比羅大権現という幟が付いているが、これはこの道の先に別の神社(あるいは鎮守社?)があるからで、この地蔵尊とは関係なさそう。

この細道を進んでいくと、「こども ののさま」と書かれた地蔵尊のようなものがある。
「ののさま」は幼児語で「仏様」の意味。子どもが参詣する専用のお堂なのか。

その先には七福神の板碑。
ペンキで色が塗ってあるのが珍寺の面目躍如といったところ。

そこからさら本堂の裏のほうへまわりこんでいくと、涅槃堂がある。扁額には「古涅槃寺」とある。
内部には黄金の涅槃仏が安置されていて、護摩壇がある。護摩堂といっていいかもしれない。

本堂の真後ろには薬師堂。
この堂が一番中国っぽい意匠でできている。

薬師堂の内部。

薬師堂の隣りには鉄骨製の観音堂。
この寺の野外仏は基本的に金色に塗られている。

薬師堂の横にはさらにお堂を建造中であった。
こういう血気盛んな寺って好きだなあ。たぶん訪れるたびに進化していくのじゃないかしらん。

涅槃堂の裏側には小さな横穴墓を思わせるものがある。

上の側の洞窟に入ってみよう。

中は右側に延びていて、中には役行者、地蔵尊、弘法大師が祀られている。

右側へ行くと二股に分かれているが、洞窟は深くなくすぐ行き止まりになっていた。

下の洞窟は弁天窟。こちらも同じような構造で奥が二股に分かれている。
入口付近には銭洗弁天があった。
このへんの細かな作り込みは素直に評価したい。

庫裏のほうには桜姫抱き上げ観音という観音像がある。
さて、こうして寺をひとまわり見たあと、珍寺大道場の記事をあらためて読み直してみると、小嶋さんはよく見てるなあと関心する。情報収集力もすごい。
(2005年05月02日訪問)