時刻は18時半。もうここが最後の訪問地となる。
きょうは朝からずっと降ったり曇ったりという悪天だったが、いまごろになって急に空が晴れてきた。
八幡宮が続く。次に訪れたのは
周囲は三角州地帯で水田が広がるが、神社のある土地だけは小さな丘になっている。境内は西面していて、200mほどの参道が西に延びている。
その参道の入口付近、一の鳥居の前には石橋があった。
加工技術的には近代のものと思うが、立派な橋だ。
そこから参道を進んでいくとまた小さな石橋。石橋の右側に見える石碑は「縣社」とある。
奥には二の鳥居が見えてくる。
その橋を横から見たところ。
参道の右手には割と大きな池。中央には中島があり、太鼓橋で渡れるようになっている。
二の鳥居は江戸中期に近郊の庄屋が建てたと刻まれている。
面白いのはは柱の断面が円ではなく、角丸の正方形ということだ。珍しい鳥居だと思う。
二の鳥居を過ぎて進むと、両側に石灯籠が林立し、楼拝殿が見えてくる。
途中、左側には水盤舎。
翼廊をもった楼拝殿。
横から見ると、楼拝殿→幣殿→石の間→本殿になっている。したがってこれは楼門ではなく、はっきりと楼拝殿と言い切れる建物であろう。
翼廊からはさらに後ろに向けて廊下が伸びて、幣殿をコの字型に包み込むようになっている。この廊下と前面にある向拝によって、楼拝殿の平面形状は
その背後の、幣殿→石の間→本殿の平面形状が"呂"の字型にたとえられるため、全体では"宮"の字型の社殿になるという。
これも珍しい造りだ。
本殿は巨大な流造りの覆屋、内部の本体も三間社流造り。
二重構造の流造り型本殿。覆屋も檜皮葺きで立派なものだ。
本殿は棟札等により1740年に建てられたものだとわかっている。
楼拝殿、幣殿、本殿は国重文に指定されている。
本殿の左側に松尾社という末社があった。
実はこれ、奉安殿じゃないの?
「違う、これはねぇ、松尾社、お酒の神さま」、「鳥居を見ると天明年間の刻もあるでしょ!」って否定されるかも知れないが、それでも奉安殿的な物件として記憶しておこうと思う。
念のため背後からも写真を撮っておく。
楼拝殿の右側には「硫黄島玉砕勇士之碑」という慰霊碑があった。
参道には「縣社」という大きな石碑もあったので、戦前には国家神道の枠組みのなかで、地域において軍国主義の精神的な柱となった神社だったのだろう。
境内にはほかに、神庫(?)、
社務所があった。
(2004年05月04日訪問)
古建築の細部意匠
単行本 – 1972/6/10
近藤 豊 (著)
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いつも机の上に置いてあります。