普賢寺・普賢堂

堀に囲まれた伽藍、堂宇も多い名刹。

(山口県光市室積8丁目)

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周防灘に突き出た室積半島。その先端は鉤状砂嘴になって左回りに巻き込んで湾を形成している。

その内湾で浜に面した巨刹がある。普賢寺だ。

主要伽藍の周囲は堀になっているが、城跡や館跡というわけでもない。仏教の伽藍配置としては特異だと思う。

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現在の宗派は臨済宗。かといって禅宗の匂いがぷんぷんしているという感じでもない。海難除けの信仰があつかったといい、どちらかといえばそうした祈祷寺的な雰囲気だ。

境内は東面しており、夕刻のため山門は完全な逆光になってしまった。

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境内側からみた山門。

三間一戸の二重門である。つまり正面からみて柱間が3間あり、そのうち1間分が通路という型式で、屋根が2層になっている門だ。なぜ2階と言わないかというと、「階」は内部にあるフロアの数を意味し、「層」は外観から確認できる屋根の数を意味する。二重門は高さがあるため、鉄砲階段では登り切れず、内部に中二階のような構造を持ち、実質的には3階建てとも言える構造になっているからだ。

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山門を入って左手には輪蔵がある。

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その内部。

経巻棚は失われていて、傅大士(ふだいし)だけが置かれていた。

気になるのは右奥にある輿。葬送行列用の輿ではないか。

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いよいよ、主伽藍へと入って行く。

主伽藍は全周を堀で囲まれている。

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堀の手前にはお百度石があった。

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石の反り橋を渡ると正面に本堂たる普賢堂が見える。

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参道の中央をふさぐように建つ香炉堂。

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建物が多いので、左回りに見ていこう。

まず境内の右手前角にあるのが鐘堂。

当サイトでは、2階建てで2階に床がある鐘つき堂を「鐘楼」、平屋の鐘つき堂を「鐘堂」と区別している。この物件は石垣で2階が築かれていているので微妙だが「鐘堂」としておく。2階に高欄でもあれば「鐘楼」でいい物件だ。

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つづいて、本堂の右側にある開山堂とされる建物。年代的には江戸中期くらいか。

方3間の建物だが、手前1間が吹き放ちになっていて、開山堂としては珍しい構造と思う。

薬師如来が祀られているらしく、薬師堂でもいいのではないか。

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開山堂から本堂へは、L字型の渡り廊下で結ばれている。

いわゆる禅宗の回廊とは違う。

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本堂。

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総欅造りで比較的新しい建物にみえる。古くても明治くらいではないか。

手前の2間分が吹き放ちというきわめて特異な建築で、禅宗の建築ではなく、密教の祈祷寺などにありそうな建築である。

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正面の向拝の天井には十二支の方位板がある。

なんだかここだけは古そうなので、本堂は建て替えでこの方位版だけが元の建物から持ってきたものか。

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本堂を横から見たところ。

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本堂の背面は、凸型になっていて本殿状の建物が接続している。

まるで神社の建物である。

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本堂の左側には小さな浮島があり鎮守社が祀られている。

右が金比羅宮、左が宇賀神。

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さらに本堂の左手には子安観音堂(手前)と、文殊菩薩堂(奥)がある。

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文殊菩薩堂はもう堀の隅の位置であるから、これでひと回りしたことになる。

比較的新しい建物が多いことに違和感を感じる。もしかして廃仏毀釈時に神社から寺へ建て変わったのではないかなどと想像してみる。

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山門のところに戻ってきた。

山門の周囲は広場というか公園になっている。

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そこにあったアーチデッキ型の滑り台。

タラップや滑降部の手すりに細い鉄筋が溶接されている。

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ご当地の鉄工所によるオリジナルの商品か、一点モノ思われる。

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特にめずらしいのは、このデッキ部のアーチ構造。デッキの手すりに傾斜があり、その手すりがそのままアーチになっているのだ。そのため、野球帽のツバのように前方に飛び出すようなデザインになっている。

初めて見るデザインだ。やはり遠出すると面白い滑り台に出会えるな。

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滑降部は鉄パイプを敷き詰めたものだった。

年代的には古そう。

(2003年09月03日訪問)

福岡の祭り (アクロス福岡文化誌 4)

単行本 – 2010/3/1
アクロス福岡文化誌編纂委員会 (編集)

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