稚蚕共同飼育所巡り2日目。
最初に訪れたのは、橘稚蚕共同飼育所。
橘山は前橋の北部にある丘陵だ。赤城山の南麓にいくつかある流れ山のひとつ。その名前は、日本武尊が東征のおり、この場所で休憩し、弟橘姫を偲んだという伝説に由来するという。
橘稚蚕共同飼育所はその北麓にある。
この地は現在は渋川市になっているが、以前は北橘村(キタタチバナムラ)という村だった。橘山の北側という意味だが、発音しにくいため「ホッキツムラ」とも呼ばれていて、群馬県民の多くは正式名称も「ホッキツムラ」だと思っていたのではなかろうか。 その「キタタチバナムラ」は渋川市に編入されるにあたってついに「ホッキツマチ」という読み方に変わった。
建物は直線型で、妻に主出入口がある。赤城南面で最もよく見られる形式だ。高窓は4つ、換気塔は3つ。小屋組みは木造で、控え壁あり。
比較的戸締まりが厳重で、ガラス戸などから中の様子をうかがうことができなかったが、外観はほとんど改変されていないし、表札も飼育所のままになっていることから、内部は当時の設備が残っているのではないかという期待が持てる。
中を見てみたい飼育所のひとつだ。
実は、橘山へ行くまでに、前橋市街地北部の稚蚕飼育所をいくつか訪ねたのだが、ことごとく失われていた。写真はその途中で見かけた赤城型民家。普通の家なので、場所などは特に書かないが、かなり大型の立派な農家だ。
ところで、赤城型民家は江戸末期から明治初期の建築と言われているが、本当にそうなのだろうか。この家などは、軒がとても高く、かなり新しいようにも見える
群馬県の養蚕古民家には、平屋で寄棟造の赤城/榛名型民家と、二階屋で切妻の出桁造の民家がある。この家などは後者の系譜だ。桑畑を持っていた農家では、カイコを育てる場所が多ければ多いほどよいというような状況だったはずで、それには屋根裏を改造した赤城型よりは、二階屋のほうが向いているはずだ。だから、明治初期以後は左写真のような二階屋が建てられるようになり、赤城型はすたれたと考えるのは自然だ。
だが、全ての家が母屋を建て替えたわけではないはずで、明治初期以降も寄棟の民家を赤城型に改築することはあったのではないだろうか。
(2007年02月11日訪問)
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