長沼の養蚕農家

巨大な2階農家。煙出し櫓がすごい。

(群馬県伊勢崎市長沼町)

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養気山を探しているとき、何軒か養蚕農家を見かけたので、しばらく周囲を散策することにした。

ところで、左写真を北関東の人は「ああ、田舎の写真だね」ぐらいにしか見ないかもしれないが、他府県の人から見ると「この巨大な民家はいったい何なんだ!」という印象を持つだろう。北関東に住んでいると気付かないが、北関東の養蚕農家は巨大なのである。

もっとも以前に少し書いたが、赤城山南面の養蚕農家の伝統的な建築様式は「赤城型農家」と呼ばれる寄棟の建物である。明治以前の養蚕農家の規模は他県の農家とあまり変わらない。

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左写真のような切妻の巨大な民家が普及するのは、おそらく明治中期以降ではないかと思う。

明治に入って養蚕の生産性が飛躍的に向上し、生糸の増産は国策でもあったから力のある農家は銀行から融資を受けて規模を拡大できた時代だったはずである。

巨大農家の2階はすべて養蚕の空間になっていて、煙出しは換気して湿度を抜くためのものなのだ。

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少し北に歩くと、左写真のようなベージュの農家があった。西側(写真右手)に寄棟の2階屋が増設されているところは、上写真の赤い切妻の農家と非常によく似た構造をしている。ただしこのベージュの農家では煙出しは1ヶ所でありガラスがはまっていた。

そもそも母屋は一般的なスケールでは3階建てに匹敵する大きさである。煙出しがつくと、民家というより城のようなド迫力なのである。

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3つの櫓を載せた民家が見える。

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行ってみたら漬物工場の倉庫だった。

もともと養蚕農家であったものをくりぬいて内部を倉庫代わりにしていた。

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養気山の南にあった農家。ここでは煙出しはひとつにつながっている。このような煙出しを「総やぐら」という。写真で見るとそれほどでもないが、木造の巨大建築のボリューム感には圧倒される。

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この規模の養蚕農家はいつか1件くらい市指定文化財くらいにはしてもいいと思うが、文化財として公開されると、家財道具はすべて撤去され間取りも原初の形状に復元され、実際の生活の様子がさっぱりわからないような展示になってしまう。これだけの巨大な住空間が養蚕がなくなった現代ではどのように使われているのか、一度中を見てみたいものである。

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櫓をまったく載せていない農家もある。

もともとこの造りだったのか、養蚕をやめるときに屋根を葺き直したのかは不明だが。

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近くはネギ畑などになっていたが、畑の境界にわずかに桑の木が残っていた。こういう桑を境界桑(きょうかいぐわ)と呼ぶ。もちろん土地の境界があいまいになるのを防ぐために植えられる。

またこの地域には冬に「赤城おろし」という強い乾燥した季節風があり火山灰の表土が風で飛ばされるのを防ぐ機能もある。左写真でも桑の根のあたりに砂がうずたかく積もっているのがわかる。

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赤城おろしを防ぐため、この地方では屋敷の北と西に屋敷林という林を作ったり、左写真のような見事な垣根を巡らせた家が目立つ。

こうした垣根を「かしぐね」という。

(2004年08月31日訪問)