宮古市の宿を発って最初の目的地浄土ヶ浜へと向かう。
最初に苦情を言わせてもらえば、この浄土ヶ浜という観光地、駐車場からのアクセスが最悪。浜へ直接行けるのは観光バスだけで一般車は進入禁止となっている。周辺には2ヶ所の無料駐車場があるがどちらも浜までは1km以上山の中を歩かなければならない。特に正式な駐車場はどういうわけか山頂に作られていて、浜から遠すぎる。登山のつもりなら大した高低差ではないが、ここに来る観光客は山登りに来るのではない。それに年配の人などは体力的には歩けないだろう。
もう一方の駐車所は隣の浜にあって、浄土ヶ浜へは山中の車道を歩くことになる。一般的に言って山間部の車道は、道路の開削や斜度の都合で作られるから、大回りして道のりが長くなることなどおかまいなしだ。この道も隣の海岸へ行くのに、谷を大きく迂回するようになっている。クルマなら5分もかからないが、これは人が歩くための道ではない。自然保護という理由もあるのだろうが、大気汚染の元凶とも言えるディーゼル車(バス)を通らせておいて、一般車両はダメというのは理解できないし、歩いている後から観光客を満載したバスに追い抜かれるのは気持ちのいいものではない。
シーズン中なら駐車場から浜までの送迎バスかタクシーを貼り付けておいてほしいし(有料でも可)、オフシーズンは浜への自家用車の進入を許可すべきだ。あるいは、海岸沿いに最短距離で歩けるような遊歩道を造るかしてほしい。
ただし、浄土ヶ浜自体は、駐車場に対する怒りが瞬時に消え去るような美しい場所だった。
“極楽"という言葉から受けるイメージが極彩色で光に満ちた世界なのと対照的に、“浄土"という言葉は静寂と死の世界を喚起させる。
浄土ヶ浜は“浄土"があるとしたらこんな場所だろうという、私たちの心象のイメージがそのまま立体になったような場所なのである。
ここはまさに死の世界、生きとし生けるものが存在できない世界だ。
海の中にも海草や貝などはあまり見られないのも死の印象を強くする。
浄土ヶ浜や、浄土庭園、恐山などに見られるこの浄土観は、いったいどこからくるのだろうか。
ふと、チベットにあるカイラス山のことが思い浮かんだ。カイラス山はヒンズー教やラマ教の聖地で岩ばかりの高山だ。もしかしたら日本に伝来した仏教の古い遺伝子の中にはカイラス山の記憶が刻まれていて、この岩山の風景を見たときに、その記憶がよみがえってくるのではないか。そんな途方もない空想をしてみた。
(2000年10月06日訪問)