◆釈迦堂(徳島県石井町)

徳島から国道192号線を西へ向かうと所々で国道から旧道へと入るY字路に出会う。石井町の市街地を過ぎてしばらく行くと浦庄という地域があり、そこにも写真のような旧道への入口がある。

こういう道をみるとついつい入ってしまうのが私の性なのだが、この道を入って少し行ったところに大仏があるということは、最近になるまで知らなかった。

旧道の方にピンク色に桜の咲いているのが見えるだろうか。そこが浦庄の釈迦堂である。

旧道は車がすれ違えないくらいの狭い道が続く。

釈迦堂の前あたりは特に狭い場所で、よそ見をしながら車で走れるような道ではない。だからこの場所に寺があるということ自体、いままで気がつかなかったのだ。

もっとも寺と言っても、ぱっと見には公民館のような建物があるだけで、注意していなければ寺だということは気づかない。

堂は無住で人けがない。だが先週、前を通ったときに提灯が飾り付けられていたので、今週あたり花見で堂が開くと踏んで、今日来てみたのだ。(写真は先週写したもの。今日は地元の人達が酔いつぶれたりしていたので、写真を写すのはばかられた‥‥。)案の定、堂は開いていて、気兼ねなく上がらせてもらうことができた。

大仏は、釈迦如来の座像。

像高は240cmということなので、ぴったり丈六仏、すなわち大仏である。

釈迦堂の内部は公民館になっていて、カラオケセットなどが置かれている。その中央の内陣(?)部分だけが天井が高くなっていて如来像が窮屈そうに収まっているのである。

写真ではどうしても伝わりにくいが、やはり丈六仏というのはかなりの迫力を持って迫ってくる。

像が作られたのは鎌倉時代と推定されているが、当時のままなのは頭部のみ。体は室町時代に修復されたもので、腕は江戸時代のものなのだという。衣紋の表現などもぬるい感じ。体は何度も色を塗り直した跡があり、とにかく全身補修だらけ。そのため町の文化財に指定されているだけだが、この補修の跡がかえってこの仏の味わいとなっている。400年のあいだ信仰されてきた証なのだ。県や国の文化財に指定されないからといってなんら恥じるようなことではない。

 

頭部のアップ。

鎌倉時代の特徴が見られると案内に書かれていた。

私にはよくわからないが、小ぶりな目鼻や張りのある肉付きなの表現などが鎌倉以降の手法だということなのであろう。

瞳は筆でちょこんと塗ってあるだけ。しかもかなり雑に塗ってある。

この大仏にはこんな伝説がある。

この大仏はかつては今より南の寺にあったのだという。いま、浦庄小学校の南の“イチョウ”という地域の集会所(左写真)があるあたりには大きな寺があり、大仏はそこに祀られていた。現在の釈迦堂からは直線距離で100mくらいだろうか。

集会所のあるあたりには石仏や宝篋印塔などが散在していて、かつては大きな寺があったことがわかる。集会所には賽銭箱が置かれていたから今でもお堂として機能しているのだろう。

大仏はその寺の北側、いま八坂社(左写真)があるあたりに安置されていたという。

戦国時代、石井町一帯の寺は長宗我部氏にすべて焼き打ちにあった。そのとき火事から逃すため、僧たちは大仏を寺の北側の川に転げ落とした。そして長宗我部の一党が去ったあと大仏を引き上げようとしたが、川の南岸の斜面が急で引き上げることができない。しかたなく川の北岸に引き上げたが、そのあとは重くてどうにも運べないのでそのまま現在の街道筋に安置することになった。

ところがその後困ったことが起きた。この大仏は霊験が強すぎて、街道を不浄のものが通るのを許さなかったのだ。魚屋が前を通れば突っ転ばし、肥桶(こえたご)をかついで通ればひっくり返るというありさまだった。弱り果てた街道筋の人達は、えらいお坊さんに頼んで、大仏の魂を抜いてもらった。おかげで大仏の霊験はなくなったが、街道を行く人達は無事に釈迦堂の前を行き来できるようになったという。

左写真はかつて大仏が投げ込まれたという川。低い土地になっている。民衆の中で守られてきた素朴な大仏らしい伝説だ。

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