石西社

通年養蚕を研究した製糸会社として知られる。

(島根県津和野町枕瀬)

島根県で土中育をした養蚕農家を探すといってもあまり手がかりはない。そこで、島根県で最後まで養蚕業にかかわっていた石西社(せきせいしゃ)という製糸会社を訪ねてみることにした。

場所は津和野町、島根県の最西端の山口県に近い。6年前に山口長門の旅で訪れた地域なので多少の土地勘はある。前夜のうちに徳島県を発ち、朝には津和野地方に到着した。2004年の旅で訪れた大井谷の棚田という場所をまず再訪した。あるお宅の様子がどうなっているか確認しに行ったのだが全体的にあまり様子が変わっていなかったので、ここではあえて書かない。

そこから最初の目的地石西社はすぐ近くである。

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石西社は1929年(昭和4年)にこの地方で設立された生糸仲買組合で、1943年に製糸工場を建設。製糸業を廃業したのは2001年で、比較的最近まで製糸業をつづけてきた会社である。

製糸業といえば当然、繭を買い付けているわけだから、そこで養蚕農家の手がかりが得られないかと考えたわけである。

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まず石西社の工場跡を訪ねてみた。

社屋の屋上には「石西社 繊維の女王は絹」と書かれた看板がまだ残っていた。

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ここはどうやら「第二工場」という施設のようだ。

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敷地には三階建てのRC造の建物と、平屋の倉庫のような建物がいくつか残っているが用途は不明。

だがたぶん繰糸や再繰などの生糸製造に直接かかわった施設ではないように思われた。ベルトコンベアなどの設備が見当たらないからだ。

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車寄せがあるので、入出庫的な業務をこなせるであろうことから、仕上がった生糸の倉庫かなにかだったのだろうか。

情報を聞こうと思うが、まったく人けがない。

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車寄せに繰糸機が置かれていた。

試験的に糸を作る小型の機械か、あるいは、繭の買い取り価格を決めるための繭検定をする検定機と呼ばれる特殊な繰糸機だろう。

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工場の入口には桑が生えていた。鳥が種を運んだのか。かつてこの近隣に桑園があった証しだ。

桑の品種は、葉の切れ込みが深い、ヤマグワに近い系統の白グワ。

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第二工場跡地の斜向かいには神崎直三郎顕彰碑があり、その背後は広い更地になっている。神崎直三郎は石西社の創始者である。

この更地は石西社の第一工場の跡地で、ここが解体されたのは2005年3月、あと半年早く訪れていれば工場の様子も記録に残せたと思うと悔やまれる。

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近くにあった日原町蚕無菌生産研究センター。石西社が中心となって、蚕の人工飼料飼育を研究した施設である。石西社は製糸事業をやめたあと、カイコの蛹を使って冬虫夏草(昆虫に寄生するキノコで高価な漢方薬)を生産する事業を行っていて、その一貫として人工飼料育を研究したのだ。

カイコの人工飼料育は昭和の時代から研究が始まっていたが、なかなか実用にはならなかった。エサの水分が多く繭の糸質が上がらなかったというような話も聞く。だが、蛹を利用する冬虫夏草では繭の質は問題にならないので、よい着眼点だったと思う。

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人工飼料育の問題はなんといってもコストである。現代の養蚕は年金生活の老農家が主な担い手で、補助金漬けの作目である。つまりもともと繭価格は過剰に低価格に抑えられているのだ。その作目に対抗して設備投資し、まっとうな企業会計のなかで製造すれば当然高コスト(というか正常な製造原価)になり、市場の繭に対してメリットが見いだしにくい。

この冬虫夏草事業の原料の蛹も、現在は通常の飼育方法で生産した繭の買い付けになっているようだ。

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私は人工飼料育は日本で養蚕を残す数少ない可能性のひとつだと考えていて、ぜひ成功してほしい技術だと願っている。

だが養蚕はカイコという生物の飼育技術の側面と、桑園を管理する農業技術の側面があり、統合的な技術開発が必要だ。研究室の手仕事でうまくいったとしても、実用化には量産技術や自動機械の開発が不可欠で、日本の農業が苦手とする内容に踏み込まなければ成功しないだろうと思っている。

ここでは石西社の関係者に会えなかったが、石西社はいま道の駅も運営していて、道の駅の事務室で元担当者に会うことができた。

その話のなかで、現在でも県内で養蚕が残っている可能性の高い場所を教えてもらい、そこへ向かうことにした。

(2010年09月19日訪問)