倉敷本町付近の町並み

商家がならぶ山沿いの町並み

(岡山県倉敷市本町)

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倉敷の景観を大別するなら、鶴形山のふもとに続く商家街と、倉敷川運河の河岸問屋街の風景の2つの特徴があるといえるだろう。まず商家街のほうから写真を中心に紹介しよう。

このあたりは一本の道の両側に平入りの商家が並ぶすばらしい景観になっている。

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倉敷の町並は都市計画法の「美観地区」として開発規制されてきた。美観地区という基準は古く、その歴史は戦前にまでさかのぼる。したがって「美観地区」という名称は町並み観光の老舗という意味合いをもつ。

現在では法的には景観地区に用語が変わっているが倉敷ではいまも美観地区の名称を残している。そのため世間では「美観地区=倉敷」という認識になっている。

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従来の美観地区に変わるものとして、建造物に重点を置いた重要伝統的建造物群保存地区(通称、重伝建(じゅうでんけん))の指定が昭和52年から始まる。

今日ではどちらかといえば重伝建が町並みのエリートの認定基準である。

もちろん倉敷は重伝建にも指定されている。

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私は高校~大学のころにはこうした町並みが好きで、各地の重伝建地区に出かけた時代があった。

そのころの私は景観を美しくするために人家を古い意匠で新築したり、既存の建物の表層を昔風に作り替えること、いわゆる「修景(しゅうけい)」ががすばらしいことだと、なんの疑問もなく信じていた。

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だがその後、たくさんの有名無名の町並みを見るうち、時計の針を逆にまわすような行為が素直にいいことだと感じられなくなってきたのである。

日本において景観というのはその場所の産業と密接に形作られたものであり、「産業と景観」は「原因と結果」のような関係にある。たとえば倉敷はまず舟運を利用した物資の集積地として、ついで、繊維(紡績)産業の中心地として繁栄した歴史がある。

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それらの産業が消滅したあとに町並みだけをその時代に戻そうとしたり、それを通り越してその当時ですら存在しなかった純粋な映画セットのような景観を創造していくことは、不自然に感じられるのである。

もちろん、美観地区の建物に価値がないとか、町おこしの努力が無駄だとかいうつもりはない。私の興味が単に「過度に作られたもの」から遠のくようになっただけである。

それはアイドルオタクの一部が、メジャーアイドルへの指向から次第に会えるアイドル、地下アイドルへと先鋭化していくようなものであり、どちらかといえばロクでもない方向、マスの消費者として望ましくない進化といえるだろう。

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だがとにかく、私はあるときから「重伝建」というものに辟易していて、どちらかというと近寄りたくない存在くらいに感じるようになっていた。

うんざりしているのは、重伝建が建造物群の価値で冷徹に指定されるのではなく、住民の意識に重きを置ていることだ。たとえばある産業の特徴をよく表わす町並みがあったとしても、そこに住む人々が望まなければ一方的に指定されることはなく、そのまま消滅していくのが重伝建の限界なのだ。

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いっぽうで指定を望む場合、町おこし団体を設立して地域活動をしていることが近道になり、ひどい場合は指定を受けるためのアリバイとして活動を行うみたいな逆転現象すら起きる。そして町おこしのゴールは多くの場合、たくさんの人が来る→土産物が売れるということである。

結果、重伝建指定は町おこしのツールとなりさがり、歴史を伝えるべき町並みを、土産物屋街に変えるシステムとして機能するようになった。

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さらにその土産物屋だが、日本中どこへ行っても同じような土産物ばかり。つるし雛や醤油ソフトクリーム等のモノマネ商品や、中国等の海外で生産された雑貨、雑穀、ドライフルーツなどが並ぶモノカルチャー状態になっている。

もちろん倉敷がその代表例ということではない。あくまでも重伝建というシステムがもたらしたものの一般的な論としてである。

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それゆえ私は倉敷の町並み観光であまりテンションも上がらず、作業のような感じで写真を撮り続けていただけなのであった。

思えば、私が倉敷ですべきことは、古い家並みにまぎれて残っている個人操業の撚糸場や機業場を探すことだったのかも知れない。それが倉敷の産業をもっとも素直に伝えたものだからだ。

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いろいろとネガティブな物言いになってしまったが、倉敷の商家街はその規模、レベルともに全国でも確実に五指に入るすばらしい場所であり、ふつうに観光したら必ず満足できるはずだ。

(2003年04月27日訪問)