公田の渡し跡

前橋市内で最後まで残った渡し舟だった。

(群馬県前橋市公田町)

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私が子供のころ、前橋市で利根川にかかる橋はいまよりずっと少なく、JR線鉄橋付近にある道路橋「利根橋」以南には、玉村町の「福島橋」まで10kmのあいだひとつの橋もなかった。

1972年、利根橋と福島橋の中間に昭和大橋という道路橋ができたが、それ以前にはそこには渡し舟があり前橋と高崎をつないでいた。その「公田(くでん)の渡し」の跡がどうなっているのか見に行ってみた。

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私は一度だけこの渡し船を利用して、対岸の高崎市萩原の大笠松というものを見に行ったことがある。その時の記憶を頼りに跡を探しに来たのだが、はじめ見当違いの場所を探してしまい、人に訊いてやっと入口にたどり着いた。

入口は目立たない小さな路地で、目印に「水神」の石碑がある。

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そこから崖を下りる坂があるのだが、それはここにかつて人々の往来のあったとは想像するのがむずかしいような荒れた狭い道なのであった。

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坂道は途中から石段に変わる。

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利根川はときどき流路を変えるので、河原や瀬、淵の位置が微動することがあるが、私が渡船に乗ったときもこの場所は淵だったような記憶がある。

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左写真は、郷土かるた「下川淵かるた」の「く:公田に残る渡し跡」の絵札である。

このように渡し舟には動力がなく、両岸から貼られたワイヤーを人力でたぐりながら横に移動する方式だった。

むかし利根川を利用して木材をイカダに組んで運んだ時代があった。そのころ筏流しの人がこのワイヤーに引っかかってケガをするということがよくあったという。

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また、聞いた話だが、昭和大橋ができる直前のころ、この渡し舟の船頭は酒飲みで昼間から寝ていることがよくあったそうだ。対岸には中央高校があり、その生徒が通学で渡し舟を呼んでも来ないため、自転車をかついで川を歩いて渡ろうとして水死するといういたましい事故も起きている。

必ずしも、懐かしいだけの時代ではなかったのだ。

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対岸を見ると、コンクリの基礎のようなものが見えていた。あれが対岸でワイヤーを固定した場所だろうか。

いずれ対岸にも行ってみたいと思う。

(2014年05月03日訪問)