新島襄の両親宅

新島襄の生家と勘違いしている人が多い。

(群馬県安中市安中1丁目)

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2012年11月。郷土史関係の勉強会があって、コースに碓氷製糸が含まれていたので参加することにした。その日、最初に訪れたのが「新島襄旧宅」といわれる物件。

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新島襄は、江戸から明治にかけての人物で、キリスト教の宗教家であり、同志社大学の創立者でもある。幕末にアメリカに密航したが、維新後許されて明治政府のもとで教育のために働いた。

襄が生まれたのは江戸だったが、両親は維新後は安中に住んだため、帰国した襄は安中へ向かった。

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襄が安中で過ごしたのは、わずか3週間といわれていて、その間に市内で伝道をおこなった。その際、洗礼を受けた人々がのちに教会を建てるなど、西上州でのキリスト教の発展に寄与したため、安中市は新島襄とゆかりのある土地となった。

上毛カルタにも「平和の使い新島襄」という札があるため県内では新島襄の名は有名で、そのため、この屋敷も「新島襄生家」と勘違いしている人が多い。実際は、両親の住んでいた長屋である。

長屋の間取りは下図のとおり。おそらく2戸の家族が入居したもので、武家長屋ととらえるべきなのだろう。長屋としては立派なものなので、両親はそれなりの地位の武士だったはずだ。

現在は南側から入るようになっているが、この建物は移築されたもので、もともとは北側が通りに面していて、玄関も北側だったとのこと。

東半分がもと新島家で、西半分は別の家族が住んでいたのだが、現在、西半分は新島襄の資料を展示する展示コーナーになっている。

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新島家の7.5畳の和室。

中央に炉が切ってある。

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新島家の10畳の和室。

移築復元したものなので、新島家がどのような暮らしをしていたのかは、ここからは想像はできない。

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南側の縁側部分には便所がある。

北側が玄関だったから、南側に便所があるわけではなく、昔の民家はこのような位置に便所があったのだ。

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西側の半分。

資料室は防火構造になっていて、その先の和室部分は入ることができなかった。

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付近は桝形状の路地があり、城下町の雰囲気がある場所だ。

(2012年11月15日訪問)