大久野島・砲台跡

明治時代のレンガ造りの掩蔽部がたくさん残っている。

(広島県竹原市忠海町)

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大久野島は太平洋戦争時の毒ガス工場で有名だが、それ以前の時代からの砲台の跡が随所に残っている。大久野島が要塞化されたのは1901年のことで、呉・広島の東部を防衛する芸予要塞という要塞地帯の一部として機能していた。芸予要塞の司令部は忠海にあったというから、忠海の町もよく探せば戦争遺跡が見つかるのかもしれない。

暑さと疲労でメロメロだったので、サイクリングロードに面している北部砲台だけを見学した。

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地下壕の外壁は左写真のように石積みで、開口部のところコンクリートになっていた。石積みはアーチではないので、あとからコンクリの壁を作ったのではなく、最初からこのような造りだったのではないかと思う。

大型の機材を運び込んだからだろうか。

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不自然に丸い部屋があった。何が貯蔵されていたのだろう。

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地下壕はレンガ造の堅固な施工なのであまり傷んでおらず、自由に中に入ることができる。

ただし入っても奥行はなく、四角の部屋があるだけであまり面白くはない。砲弾を運ぶリフトのような垂直方向の穴は、私が見た範囲には見当たらなかった。

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一つ一つの部屋を全部覗いたわけではないのだが、全部を覗いたとしても奇抜な構造はないだろうなという感じがした。

太平洋戦争開始後、または、末期のころに作られた、気持ちの上で余裕がなかったキワドイ施設と違い、明治時代の砲台はリッチであっさりしているので、いまひとつそそられない。

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ガードのような通路があり、その下にも地下壕があった。

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その部分には水が溜まっていた。きれいな水だったらタルコフスキーっぽい風景なのだが、ホコリが浮いたような汚れた水だった。

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砲台の一部には内庭のような広々とした場所があった。宿舎などがあったのだろうか。

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同じような地下壕がいくつもあったが、内部は確認しなかった。

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砲台の跡。

円環状にボルトが並んでいる場所に砲座があったのだろう。 ものの本によると、北部砲台には 240 mm 26口径、または、12 mm 25口径の二種類の砲があったという。この砲座の周囲は盛り土があり、艦艇を直接射撃できそうにないので、ここに設置された砲は曲射砲であったろう。

(2002年08月27日訪問)